小説

『ビヨンの妻』霧赤忍(『ヴィヨンの妻』)

 私は想像し難い内容に言葉に詰まりました。夫が小説を書く。文法はおろか冬至を(ふゆいた)と平気で読む、読み書きもままならない夫に可能な職業なのかと不安になりました。今年三十歳になった夫の最終学歴は高校中退です。学歴と小説を書くことに強い相関があるとは思いませんが、夫の話し方から察するに遠くかけ離れているように感じました。
「で、今日辞めてきちゃった。ビニコン」
「はい?……」
「大丈夫でしょ、小説家になるわけだし!」
 反応できないでいる私に、構わず夫は続けました。
「で、小説家はあばら家でボロ畳でしょ。スマホでいい場所みつけたのよー」
「…………」
「これマジ最強でしょ! 決定でしょ!」
 夫はちゃぶ台に置いていたスマホを操作すると、物件の画像を私の眼前に差し出しました。言葉を失いました。場所が九州だったのです。それも聞いたことのない地名で、千キロほど遠く離れた場所だったのです。
 画像の物件は見事なあばら家とでもいいましょうか。写真には写りこんでいませんが、蜘蛛の巣が張り巡らしている室内や、ゴキブリやムカデの類が大手を振って闊歩している光景が目に浮かびました。
 目標を見つけて上機嫌の夫に、四つ年下の私は引越しを受け入れるべきか悩みました。
「蓮太郎。こっち来い。見てみー」
 坊やが天使のような笑顔で向かってきました。
「ほれほれ。ここが父ちゃんたちの新しいお家だぞー」
「ケケ」
 スマホの画面を覗き見た坊やが、阿呆な笑い声を出しました。私も坊やの笑いにつられて思わず笑ってしまいましたら、夫が「よし、決まり。小説王に俺はなる!」と声高らかに宣言し、私たちは九州に引っ越しました。
 新しい暮らしも三カ月ほどが過ぎ、坊やは幼稚園に入り、私は夫が家にいるものですから、外に働きに出なければと就職活動をしました。引っ越し時に貯金の大半を使い、家計は苦しく、就職も決まらずで、気持ちが華やぐことの少ない日常を送っていました。
 そして夫が万引きを働いたと連絡を受ける三日前のことです。
「実はさあ……小説、何も浮かばないんだよねー。マジ気になることあるし」
「そう……」
 狭いあばら家に住んでいるのですから、夫が何も書けていないのは承知していました。
「いやいやいや。そう暗くなんないでよー。話は終わりじゃないから。あのね――」

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