小説

『最上階の女』芹井日緒(『ラプンツェル』)

「仕方ありませんね、葵さん。それでは、少しの時間だけですよ。冬が来て、最近とても寒いので、長く開けておくと風邪ひいちゃいますからね」
 ここは最上階だからと、気を付けるように諭して魔女は出て行った。しめたものである。ベッドの横にあるボタンを押すと、私の体はマットレスごとふんわりと起き上がっていく。ここにも魔女の魔法がかかっているらしい。これは中々便利なものだ。気だるい午後にボタン一つで、読みかけの文庫を手に取って読める姿勢にしてくれるからだ。今はもう文庫など読む気にもならないが、身体を起こして下界を見渡せるようにはしてくれる。
 窓の開いた空間は私に、想像の空間をも連れて来てくれる。身体が思うように動かせなくても、想像している間は決して退屈にならない。身体はここを離れる訳には行かないけれど、心だけは外の世界を浮遊出来る。だから、晴れていてこの窓が開け放たれたひと時は、私にとってかけがえのないひと時なのだから。

―その国には、緑の草原が広がる穏やかな平地に豊かな川が流れていました。しかし、どんな豊穣な国にも何か致命的な欠点はあるものです。この国の王様にしても、それは例外ではありませんでした。早くに王妃を失くして以来塞ぎがちな彼は、残された一人の子供にしか希望を持てませんでした。そのたった一人の息子はというと、彼に劣らず頑固息子だったのです。最愛の王子のことで、王様の悩みは尽きません。彼は成人して何年も経つと言うのに、全く妃を娶る気がない様子なのです。気に染まる姫がどうしても見つからないからでした。
 ところで、王子さまは、或る日、狩りに出かけて突然の雨に会ってしまいました。雨風や雷がひどくなってきたため、散りじりに逃げ惑う内に、王子さまはお供の者といつしかはぐれてしまいました。たった一頭の馬とたった一人で森を迷い歩いて行き、木々の隙間を抜け出すとそこには急に開けた世界が現れました。彼は驚きました。そこには見たこともない高い塔がそびえていたのです。
彼は雨乞いをするように、塔の下から声をかけました。
「こんにちは、どなたかいませんか?」
 小窓から雨音に乗って、微かにその声は私に届けられたのです。意地悪な魔女がたまたま閉め忘れた小窓があったからでした。私はどんなに濡れるのも構わず、長い髪の毛を塔から垂らしました。王子さまはその髪を伝って塔をよじ登ってきました。私たちは暖炉の炎で、お互いに濡れた髪の毛と濡れたマントを乾かし合いました。そして、お互いに人目で恋に落ちたのでした・・・恋に落ちたのでした。

 ふう、一番最近、恋に落ちたのはいつのことだったかしら。確か、窓の下で何かが起こった日の事だった。それも遥か遠い日のような気がする。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10