小説

『兔は野を、我は海を』百瀬多佳子(『うさぎとかめ』)

 「うさぎとかめ」の昔話は嘘だと思う。亀は結局、昼寝から目覚めてラストスパートをかけた兔に追い抜かれる。兔が先にゴールテープを切るのだ。そんなことを思う、十八の春。たくさんの兔たちが、私を追い抜いて次のフェーズへと進んだ。やけに桜の開花の早い年だった。花びらがひらひら散っていた。

 大手企業で華々しく活躍する二兎さん、一児の母、育休を終え職場復帰、家族のサポートを受けながら時短勤務ではあるもののチームを引っ張っている―。然もありなん。あの頃と何ら変わらない。さすがは兎だ、そそくさと原稿を手放したくせに、頭から二兎絢華は消えない。十年ぶりの再会に落ち着かない。隣ではチーフが原稿に目を通しながらぼそりと呟いた。
「二兎を追う者はなんとやら」
本来ならそうなのだ。そうであってほしい。でも彼女は、何においても評価4.5。この世にはそういう人間もいる。もうひがみではなく、諦めだ。彼女は彼女、私は私。神様は我らを不公平に創られた。
 コーヒーを淹れに席を立った。都心のビル十八階からは、一息つくにはちょうどよい景色が広がっている。西の方、今日は少し霞んでいるが富士山が見える。手前に丹沢の山並み。休憩室には誰もいない。ふーっと肩を弾ませ、大きく息を吐きだした。自社ビルではないにせよ、ターミナル駅に立つこの高層ビルに勤め先があると言うと、誰もがすごいですねと言う。何がすごいのだろうか。この会社が一等地に居を構えるくらい大きくなったことだろうか。それも十数年以上前のこと。入社五年そこそこの私には関係がない。すごい会社で働いているとしても、就活を経て内定を勝ち取った同期の面々に対して、どこか引け目を感じている。私はただ、目の前の仕事に全力で取り組んでいるだけ。
 コーヒーを飲み終え、さぁもう一仕事!と気合を入れかけたところに後輩の舞子がふらふらやってきた。当の原稿を書いたのは舞子だ。ふいに聞いてみたくなった。
「あの二兎さんって人、どんな人だった?」
 舞子がきょとんとした。聞かなきゃよかったと思ったが、もう遅い。
「にとさん?」
 そりゃそうだ。何人も取材して何本も記事を書いていれば、そんなリアクションにもなるだろう。
「あ〜二兎さん。もう読んだんすか?珍しい苗字ですよね〜」
コーヒーマシーンが唸っている。
「うん」
 すでに原稿を読んだことと、珍しい苗字であることの両方に同意する。舞子は仕事上では後輩だが同い年なので、二人の会話には敬語とタメ口が混在する。人によってはそれを嫌うだろう。けれど、どこか憎めないのがこの舞子なのだ。
「う~ん、よくいそうなできるビジネスウーマンって感じでしたよ、熱っ!」

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