小説

『川せみになる』菊武加庫(『よだかの星』)

 なんでいつもこうなってしまうのだろう。思い切り舌打ちしたい気分で、なるべく隣の女の顔を見ないようにした。いつもいつも間の悪い自分がつくづく嫌になる。
実家に行ったのは半年ぶりだ。出張で三日間、明夫(あきお)が家を空けることになった。結婚して初めてのことだ。
「いい機会だから、一度帰ってきたら。お義母さんも喜ぶよ。ゆっくりしておいで」
 断る理由もないので、じゃあそうするねと答えた。特に帰りたかったわけではない。すくすくと育った彼には想像できないこともあるが、説明するのも面倒だった。
 運転は得意ではなく、実家にはバスで行く。相変わらず故郷は見渡すかぎり山と田んぼしかないことと、両親が少し年を取って見えたこと以外、とりたてて心に残る出来事もなく、帰りの時刻になった。
 一時間に一本のバスだ。だが、言換えれば一時間に一本は走るバスだ。一日に十数本は走っているはずだ。まさか半年にたった一度の里帰りで同じバスにこの女が乗って来るなんて、自分の不運を呪うしかない。
 幸恵(さちえ)は乗車した瞬間最後列席に私を見つけ、昔と同じように両頬にきれいな笑窪を見せながら近づいてきた。そして目をそらす隙も与えず、迷うことなく隣に座ったのだ。その圧力に私は嫌とも言えず、大きなバスに二人きりという不幸な帰り道になった。
「ひさしぶり!高校のとき以来だよね。元気だった?」
「まあね。幸恵は?」
 興味もないが一応聞くのが礼儀だろう。窓の外は日が落ちかけている。麦が照らされ、凪の少し前の風に揺れて金色の波のようだ。この景色は一人で見たかった。山裾まで揺れながら続く麦に見とれていたせいで逃げ遅れたのだ。あと1秒早く乗ってくる客に気づいたら、寝たふりをしたのにと悔やまれる。
「仕事が忙しくてね、やっと休みが取れたの。毎日せかせかしてるから、たまにはこういう景色も見たくなって」
 言葉の端々に、自分がいかに都会で大きな会社に入って充実した生活を送っているか、額(ひたい)の上から覆うように巧く匂わせる。Vネックのニットは淡いグレーで、殆ど白に近い。薄手のリブ編みで、立体的な陰影を見せている。同じ素材の長いカーディガンを羽織り、ピンクの柔らかい素材の太めのパンツを合わせているのが座席の間に見える。曲げた膝の下にちらりと先だけのぞくパンプスの先は細く、この辺りでは買えないブランドの物であるのが一目でわかった。相変わらず色が白く、薄化粧に見えるがしっかり手の込んだメイクをしており、ラインの入った目尻が少し上がっている。出来る女の休日、しかも社内ではお嫁さんにしたい女子社員№1である自分を、完璧に演出して過不足ない。つややかなローズピンクの口元が動く。

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