小説

『こびとカウント』木江恭(『白雪姫』)

 ブス、バカ、死ね、クズ。半日かけてようやく見つけ出した上履きは泥と落書きで真っ黒に汚されていた。
 声もあげられずひたひたと泣くわたしに、ニコは囁いた。
 みっこ、大丈夫だよ。あたしたちに王子様は来ないけど、代わりにこびとがいる。あたしたちの代わりに傷ついて死んでくれるこびとが。
 ニコは空っぽの手のひらをお椀の形に合わせ、目を細めて笑った。
 だけどみっこ、気をつけてね。しちにんのこびとがみんないなくなったその時には、魔女に捕まえられてしまうから。

 あ、と思った瞬間にはもう遅く、マグカップが手から滑り落ちていた。
 スローモーション。砕け散る陶器。ココアブラウンのキッチンマットを白く汚す牛乳。小学生の時からずっと疑問に思っているのだけれど、一度牛乳をこぼした布はどうしてあんなに臭さが抜けないのだろうか。溢れた温い液体がフローリングに水たまりを作るのを、ぼんやり見つめていた。
 夢が悪い。ニコの夢なんて見てしまったから。
 ニコ、わたしにこびとの存在を教えてくれた女の子。西日の差す埃っぽい図書館の片隅でよく本を読んでいた。物語や読書にちっとも関心のなかったわたしはその横で、だだっ広い机に突っ伏してニコのめくるページを数えていた。
 時計代わりに付けているテレビから天気予報が聞こえてくる。ということはのんびりしている暇はない。早く床を拭いて破片を片付けて雑巾とキッチンマットを水洗いして脱水して干して(それでも結局捨てることになるんだろうけれど)朝ごはんは諦めて先に顔を洗って服を選んで、それから。
 一口も飲まれないままぶちまけられた可哀想なホットミルクにまみれて、こびとがうつ伏せに倒れている。残った六人がその周りを取り囲んでいる。
カウント、残りシックス。

 次は風み野、風み野、というアナウンスに目を開けると、おっさんの汗ばんだ後頭部が文字通り目と鼻の先にあった。灰色に白がまだらに入った弱々しい毛束が、整髪料と汗でべったりと濡れて黒ずんだ頭皮に張り付いている。さっきから感じていた異臭の正体見たり。目を開けるんじゃなかった。
 電車が揺れる。踏ん張って反らした背中に誰かの鞄の角がめり込む、背中を守るために体を向きを変えるとうっかり蹴飛ばしてしまった誰かの舌打ち。はいはいすみませんでした。ところでさっきから尻に当たっている手の持ち主は、いい加減それをどけてくれないものだろうか。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10