小説

『兔は野を、我は海を』百瀬多佳子(『うさぎとかめ』)

「…でも、なんだか面白そうな気がします」
 偽りではない。純粋に美術を眺めるときのように誰かの想いを汲み取り、それを雑誌として発信するのはきっと面白いはずだ。いつかは学術書籍の編集者というキャリアをぼんやり描いていたものの、思いがけないこの方向も案外いいかもしれない。心がピンと来た。
「じゃあ急なんだが、今の仕事は4月から入る中途採用の彼女に引き継いでもらおうと考えてるから」
「わかりました…ありがとうございます」
 ペコッと私はチーフに頭を下げた。中途採用の彼女は、いかにも真面目を絵に描いたような女性だ。舞子と真逆、と言っては舞子には悪いが。だが、これがまた絶妙なマリアージュとなるのかもしれない。それがチームの醍醐味だ。いや大げさに言えば人生の醍醐味。新しい場所へ移る私も、きっと誰かと絶妙なマリアージュとなるのだ。想定外の異動だけれど、これが私に新たな景色を見せてくれるのだろう。私にも、我が部署にも、春風がさっと通り抜けた。

 第七会議室から戻ると、一息つく間もなく、舞子が寄ってきた。
「先輩、例の記事、書けましたよ。読んでください」
 例の記事と言われても、見当が付かない。だが、差し出された原稿を見て、ハッとした。絢華の記事だ。

―優秀な二兎さんだが、時短勤務で仕事が終わらないことや、突発的な用件で保育園の迎えが間に合わないこともしょっちゅうある。両立がうまくいかずチームに迷惑をかけてしまうというが、懸命な姿がまたリーダーとして慕われる理由なのかもしれない。将来は通信の仕事を通して、学生時代から関心を寄せる途上国支援に取り組んでみたいという二兎さん。リーダーとして母として女性として、二兎さんのような人を応援する社会でありたい。

 舞子は、言葉は軽いが(失礼!)、書く文章には確かさがある。舞子の言葉に、私が励まされてしまった。そう、みんなみんなみんな、がんばっている。前を向いている。応援したいし、応援されたい。兎だ亀だ、評価4.5だ、そういうことでなく、ただただ私たちは懸命に生きている。そして、この先も生きてゆく。道は続くのだ。不覚にも舞子に優しい気持ちをもらったようだった。
「完璧!」
 共に仕事をするのも残りわずかだと思うと、すかさず最上級の褒め言葉が出た。異動の話を知らない舞子としては、やや面食らっただろう。なにせ手放しで褒めたことなどあまりないから。
「ありがとうございます!何かいいことでも言われたんですか?チーフに」
 ニヤリ笑いながら舞子は言った。舞子には余裕がある。大丈夫、この人ならこの編集部を任せられる。さぁ今このゴールテープを切って、次のスタートを切ろう。絢華が絢華の志した方を目指すように、私も私が志した方へ。真っ直ぐじゃなくてもいい、立ち止まりながらでもいい。春、それは私たちの美しい季節だ。

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