小説

『兔は野を、我は海を』百瀬多佳子(『うさぎとかめ』)

 この生活に卒業はあるのだろうか。そろそろ異動を相談してみようか。そんなことを思わなくもない二十八の春先。後輩を催促してやっと送られてきた雑誌ビジネスマム五月号の原稿に、その懐かしい名前を見つけたのだった。

二兎絢華さん(通信サービス・広報)
大手通信会社で広報として働く二兎さん。昨年長女を出産し、今年四月に復帰。時短勤務をしながら―

 担当している雑誌は働くママ向け。そう、取材される人はママである。後輩が関係者を通じて取材させてもらったという。
「にとちゃん、ママなんだ」
呼んだこともないくせに、心の中で呟く。今の時代、旧姓で働くことだって珍しくない。もしこれがありふれた苗字だったら気づくこともなかっただろう。道端で思いがけず、昔の知人を見かけたような気分。もちろん紙面上だから声は掛けられない。でももし本当に路上で見かけたなら・・・やはり私は絢華に声を掛けないだろう。躊躇ったのち立ち去るはずだ。原稿を一通りながめたのち、いつも通りチェック、隣のチーフのトレーに滑り込ませた。わざわざ誰かに言う必要はない。親しかったわけでもないクラスメイトだ。他人、みたいなものだ。私はお休み中のノートパソコンを叩き起こし、頭を切り換えた。

 二兎絢華が卒業後、どこに進学したのかはよく知らない。ただ、噂に聞く限りでは、都内の私立大に進学したということだ。一方の私はというと、信条に則り努力と根性で邁進し臨んだ大学受験!・・・見事にこけたのだった。努力と根性、さらに度胸も備わっていたらよかったのだが、初めての大学受験、雰囲気にすっかり飲まれてしまった。一発目の入試日、腹痛でまったく集中できず、焦りも募り撃沈。その後、他校の試験もイマイチ冴えないまま、なし崩し的に人生初の受験シーズンは終了した。いまとなれば、受験はやり直しがきく、それほど深刻にならなくてもよいと思うが、勉強ばかりでろくに社会を知らなかったせいか、私はとても打たれ弱かった。ひどく落ち込んだ。突然一時停止ボタンを押されたかのように、私の人生は止まってしまった。放っておいても勝手に人生が動いていたこれまでとは、まったく勝手の違う瞬間が訪れたのだった。
 私ひとり一時停止をしていようと、世の中は通常再生だ。卒業式という高校最後の大イベントが待っていた。本音を言えば、しばらく引きこもらせてほしかったが、さすがに受験失敗ごときで出ないわけにもいかない。十五の春、実感ゼロで迎えた卒業式が懐かしい。今度こそほんとうに私はここから卒業してしまう。この先何も決まっていないというのに。六年間着続けた制服は、晴れの日を祝うにはあまりにくたくただった。疲れ切った制服に身を包み、ぎこちない笑顔を貼り付けて、私は最後となる登校をしたのだった。

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