小説

『兔は野を、我は海を』百瀬多佳子(『うさぎとかめ』)

舞子は猫舌らしい。コーヒーを冷ますことにすべての意識が集中している。にしても、よくいそうなビジネスウーマンとは、予想通りの回答であった。
「私も読んでて、そんな感じがした」
「で、なんですかぁ?」
 目をくりっとさせながら舞子が尋ねる。亀は兎が気になるの、という言葉を飲み込んだ。舞子は実にマイペースだ。たしか以前、「私は舞ペース」と言っていた。彼女は誰かと比べたりしないのだろうか。私が絢華を意識しつづけたように。
「私が一般読者なら、同じ感想を持つってことかな。あーいかにもいそう、なんでもこなせるスーパーウーマンね、自分には関係ないわって思う。それじゃ読んでもつまらないじゃない?共感って大事だから」
 我ながらうまいことを言ったもんだ。
「まぁたしかにそう言われればそうっすね…」
 舞子はコーヒーの表面を凝視しながらこくんと頷く。
「たとえば、意外だなとか、ギャップを感じるところとかなかった?」
 ちょっとした関心が顔を覗かせる。舞子は一瞬考え込み、次の瞬間ペラペラとしゃべり始めた。
「あの人、シングルマザーらしいんです。子どもは保育園に入れてるけど、なかなか時短勤務でも上手くいかないことが多くて、同居している親に保育園に迎えに行ってもらってるらしいです」
 驚いた。絢華はシングルなのか。家族のサポートと聞いて、てっきり旦那がイクメンというやつで、家事にも育児にも協力的、ハッピーなファミリー像を思い描いていた。勝手だが絢華の人生は、わかりやすい幸せの形であってほしかったのかもしれない。なんといっても4.5の女なのだから。
「あと、好きな仕事してていいですね、なんて言われたかなぁ。大学では国際協力のボランテイアとかしてたらしいです。本当はそっちの分野の仕事に就きたかったけど、安定しないし親にも心配かけられないから、就職ではあの会社に入ったみたいで。でも、それでいて有数の大企業ですからね。そんな大手に新卒で入れて羨ましいですよ!って言っちゃいました」
 意外だった。一見華々しい女子高生絢華が大学では国際協力にたずさわり、志半ばで一般企業に就職をした。そしていま、一児のシングルマザーとして仕事に子育てに奔走している。要領がいいと思っていた兎は、本当はゴールテープを切った後、山あり谷あり歩んでいたのか。
「そのあたり、なんていうか順風満帆でもないし、思い通りに生きてきているわけでもないっていう感じを原稿に反映できないかな?その方が読んでてリアリティあって面白いと思うし」

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