小説

『兔は野を、我は海を』百瀬多佳子(『うさぎとかめ』)

 昼食後のオフィスは気だるい。電話は鳴るし、営業で出入りする同僚もいるので落ち着かないが、腹も満たされ、気分的に停滞する。だが今日の私は、最近の業務についていろいろと思い起こしながら午後二時に備えていた。何の話かはわからない。チーフとじっくり話す機会もめったにないのだ、思い切って異動の相談でもしてみようか、そんなことを思いつつ会議室へと向かった。第七会議室からの景色は、いつもの休憩室からの眺めとはまた違って、東京タワーやスカイツリー、平べったい関東平野がよく見えた。遠くのあの山は何だろうか。同じビルでも方角が変わると、まだまだ知らない景色に出会うものだな。呼び出したチーフが、のんびりコーヒー片手に現れた。
「あれ?コーヒーでも持って来れば?」
 二人きりで話すにはこの会議室はあまりに広い。妙に緊張もする。コーヒーという気分でもなかった。大丈夫ですという素振りで返した。
「最近どう?」
 この手の切り出し方は苦手だ。何を答えていいのか、正解がわからない。聞く方も、単刀直入に本題に入ることを避けたいのだろう。
「何かと忙しいです」
「ははは、そうだよね。忙しい時に呼び出して申し訳ない」
「そういう意味では…」
 だから苦手なのだ、この質問。いい導入になった試しがない。
「じゃあ早速だけど、異動の話でね。デザイン雑誌創刊の話、亀野の耳にも入ってるだろう?」
 なんと、異動の話だ。コーヒーを一口飲むと、ちらりとチーフは私の目を覗き込んだ。たしかにその雑誌のことは聞いたことがある。上層部の肝いりだとかなんとかで、できるだけ若手に担当させたいとかなんとか。まさか声が掛かるとは思ってもみなかった。
「亀野はたしか美術を専攻してたんだよな?」
 その雑誌の表紙イメージを差し出しながらチーフは言った。
「美術史なので、芸術学部を出たとかデザイナーを目指していたとかではないんですが…」
「そっか。デザインは興味ないか?」
 即答できなかった。考えたこともなかった。目の前の資料をじっと見つめた。デザイン雑誌、それも業界に新風を吹き込むとかいう。お洒落やセンスに自信のある人に白羽の矢が立ちそうなもんだ。隣の部署ならそういう人が二、三思いつく。だが、なんせ私はお洒落2の女だ。センスとか言われると正直困ってしまう。

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