小説

『雨よ、雨よ』高橋惠利子(『Historien om en Moder』)

 死神は日に何度も花畑に現れた。花を一つ一つ丁寧に見ていき、枯れそうな花があれば容赦なく次々と引き抜いていく。
 猫は死神の仕事をくまなく観察した。死神は休む暇なく動き回る。彼は常に無表情であったが、一瞬だけ緩むときがあった。それは濃い茶の土にひょっこりと現れた新芽をみかけたときだった。だがそこの言葉はない。それは芽が出た時の、花が咲いた時の単純な喜びであり、背景にある生命の誕生に伴う感動ではない。
 死神は猫の働きぶりを冷ややかに見つめた。だが作業が徐々に慣れ、それが命の花であることを忘れかけた頃、それは突如ぶり返した。
 咲き終わって半ば溶けかけた花を、猫は口にくわえてもぎ取ろうとしていた時だ。不意にしなびた灰色の大きな手が目の前を横切り、冷たい風が猫の身体を嬲った。とっさに身を翻す。
「あ」
 猫はほんのわずかに声を上げた。
 まだ蕾がたくさんついた、咲き切っていない若いスミレの株を、死神はたやすく引き抜いたのだ。
 ぎぃいやああああああああっ。
 思わず猫は、聞こえた悲鳴に耳を伏せ後退した。
 それはとてつもなく大きな悲鳴で、かつ絞り出すようなうめきであり、聞いただけで痛みを感じた。茶トラの猫は毛が逆立ち、瞳孔を開いた。
 死神は根についた土を乱暴に振り払う。
 猫は声も出せず、動くこともできず、唯一心臓だけが呼吸を妨げるほど強く大きく動いた。
 とっさに猫は身体を丸め、その場にうずくまった。出てきそうなほどの勢いで心臓が脈打つ。浅く速く呼吸し、猫はかろうじて生きていた。
 猫の目に映っていたのは、もはや抜かれたスミレの株ではない。目の前は闇であった。
 黒が一面に広がっており、その中で日常の光景を見出すことはとても困難なように思えた。闇の中で、ぐちゅぐちゅと粘着質な液体をかき混ぜる音が響いている。さらに呼吸が浅くなる。
「坊や」
 まだ、目も開き切っていない弱弱しく愛らしい存在。
 乳の匂いをまとい、小さな手で大地に立ち、これからの未来を歩いていく者。
 猫は固い大地を蹴った。牙を剥くことは忘れているのに、必死で走った。
 無意識に唾を飲み込み、ある覚悟をした。

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