小説

『雨よ、雨よ』高橋惠利子(『Historien om en Moder』)

 目の前にはぽっかりと穴が空いている。死神が花を抜き去った直後の光景だった。
「いいえ、いいえ」
 死神は、ただ花を引き抜いたに過ぎない。
 猫は踵を返し、花畑の中を全速力で走り始めた。あの憎き黒い鳥を脳裏によみがえらせれば、命の花がたやすく見つかるような気がした。
 地の果てまで続きそうな花の中を、乱暴に猫は駆け抜けた。土が身体に降りかかり、軟らかな茎が何本か折れたかもしれない。花びらも多数散った。だが猫はそんなことに構っていられなかった。たかだか、そんなこと。そう、そんな簡単なことだから自分でもできる。ここではあの黒い鳥より、自分の方が強いのだ。
 猫はうっすらと笑っていた。
 息が切れるころ、ようやく猫は目的の花のひとつを探し当てた。広大な花畑に、何日もかかるかと思ったが、意外に早く見つけたことに猫は声高く鳴いた。
 その花は黒い鳥とは似つかわしくなく、小さく可憐なカスミソウであった。花芽がいくつもつき、雨が降ればいよいよ満開になるだろう。猫はその小さな株に向かって低くうなった。
「よくもっ」
 猫は間を置かず飛び掛った。茎の根元に牙を食い込ませ、首を振って力いっぱい引き抜こうとした。けれど、根はしっかりと大地をとらえているのか、また茎には傷一つつかずその場に居座っている。猫はうなって何度もその細い茎に噛み付いた。
「なぜっ」
 身体は土にまみれていた。上下左右にいくら引っ張っても抜けないのだ。猫は鼻の奥がつんとしてきた。
 すると不意に目の前に黒い影がさした。猫は動きを止める。
「神様」
 荒い呼吸の中、猫の表情は輝いた。ようやくここで、死神、否、神は猫の願いを聞き届けてくれる。
 長く骨ばった手がぬっと差し出される。猫は邪魔にならないように、一歩脇に避けた。
 瞬間。
 強い衝撃が身体を突き抜けた。目の前が白くなる。
 猫は身を翻す暇なく、身体をしたたかに地面に打ち付けた。猫はおそるおそる顔を上げると、口をへの字にまげ、眼光鋭い死神が拳を固く握りしめ立ちはだかっていた。
 猫はその恐ろしさと理不尽さに歯を食いしばった。

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