そう、と僕はコーヒーをすすった。
「治るの?弟さん」
「そう見えたなら、良かったけど」
もう一回僕はコーヒーを啜った。少し上を向いて、息を整えてから僕は「ねえ」と話しかけた。
「昨日さ、思考犯罪のこと言ってたでしょ?生死に関わることは、って」
コオロギは何にも言わなかった。
「アイツにさ、ずーっと言ってるわけ。治るよ、大丈夫だよ、またすぐ遊べるぞって」
コオロギは少しだけ目をそらした。僕はコーヒーを飲み干した。
「先生が言うにはさ、もうずっとあのまんまなんだって。最初は信じなかったけど、もう4年だもんな。どうしたって、もう無理なんじゃないかなって思うよね」
鼻が少しムズムズした。鼻をつまんでかいてみたけど、特に変わりはなかった。
「治るよ、きっと」
コオロギはやっと絞り出したような声で呟いた。
「治らないよ。わかってる。俺もそんなにバカじゃない。でもさ」
コオロギは顔を上げて僕のことを見た。もしかしたら、鼻がどうなっているのかを確かめようとしたのかもしれない。
「本当のことをアイツに言って、それは何になるのかな?真実だけがいつも正しいのかな。嘘には、人のためにつく嘘だってあるんだよ。それで誰かが救われるなら、僕は監獄に入れられたってどうだっていいよ。黒か白かだけだなんて、馬鹿げすぎてるね」
コオロギは何にも言わなかった。カフェに置いてあるテレビでは、相変わらず思考犯罪のニュースが流れていた。
「コオロギ、昨日言ったよね。人の思い込みは、行動に大きく作用するって」
「それはさ…」
「いや、いいんだ。俺からすれば、それはマイナスでもプラスでも、どっちだって同じことだと思ってるからさ。そう考えれば、嘘は悪いことだけじゃないだろ?」
コオロギは何にも言わなかった。こいつは口がなくなってしまったのかな、と僕は密かにコオロギにイラついていた。
「嘘が全部いけないなんて、ほんとにバカげてるよ。バカげてる。バカげてる。バカげてる」
僕は何度も繰り返した。コオロギは椅子の背もたれいっぱいに寄りかかり、何にも言わずに僕の顔を見ていた。いよいよ喋れなくなったか、と僕は席を立とうとした。
そのとき、僕の携帯がピリピリとなった。番号はまさにいま僕がいる、この病院からだった。コオロギは無言で、ただジッと僕の顔の真ん中だけを眺めていた。
僕はしばらく電話を取らなかった。福音の報せのような、危険を知らせるアラームのような、ピリピリと耳につく電子音だけがカフェに響き続けた。テレビの国営放送では、またもや田植えのライヴが始まろうとしていた。