小説

『笠地蔵と飯盛女』宮城忠司(『笠地蔵』)

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 おせんが借金の形に飯盛女として奉公に上がったのは六歳の時である。農業生産に後れを取っている二本松藩の年貢の取り立ては常軌を逸するほど厳しいものであった。貧苦から逃れる為の農民の逃亡は後を絶たず、人身売買は半ば常識とされていた。買われた娘たちは品川宿などの旅籠で飯盛女として春をひさぎ、過酷な一生を強いられた。三十歳を待たずに死ぬ者がほとんどで、亡くなると裏山に捨てられた。
 人買い伝兵衛は東海道筋、湯河原、小田原の宿場町の宿主からの注文を受け、仕入れた娘を届けることを生業としていた。器量が良くなりそうな五,六歳の娘を、いかに安く買い叩くことが手腕だと信じ込んでいる、ならず者である。
 その伝兵衛が北国街道と中仙道の分別れの宿場町、信州追分宿からの注文を受けた。報酬は通常の二倍にもなる「良い仕事」だった。二本松藩の極貧の村々は伝兵衛の、いわば草刈り地であった。どこそこで娘が生まれたとの情報を仕入れて成長を待ち、五歳になると百姓家へ交渉に赴くのが常であった。伝兵衛が真っ先に思い浮かんだのが、おせんであった。
 わずかな借金の形だとも知らず、伝兵衛から初めて飴を貰ったおせんは、その美味しさに心を奪われた。着の身着のまま、おせんは伝兵衛に従った。田んぼ道の曲がり角で振り返ると、父母、妹が藁ぶき小屋から見送っている姿が見えた。二度と帰ることができないと、幼な心で分かっているおせんは、その時初めて涙を流した。
 旅の途中で草津温泉に立ち寄った。翌日は強行軍で、浅間山を迂回して上州と信州の国境、熊野神社までの道のりだった。伝兵衛が体の隅々まで洗ってくれたので肌がすべすべになった。汚れた着物も女中に洗濯を頼んでいた。その日の御馳走は、おせんにとって一生忘れられない思い出となった。人でなしの伝兵衛にも、人の心がわずかに残っていたのであろう。
 信州追分宿は本陣を含め旅籠が十軒余りの小さな宿場町だった。近くに浅間神社が祀ってあった。しかし、おせんがその後神社に行くことが許されなかった。夜明け前から、炊事洗濯の過酷な労働が待ち受けていた。食事はひもじいもので、将来、十五歳から客を取ることを予測して、陽に当てず、やせ形色白の男好みの女に育てることが宿主の責務だったからである。
 おネイサンたち十人が一つの部屋で寝起きを共にしていた。客の給仕をするという奉公とは名ばかりで、春を売るのが仕事だった。客を取れない飯盛女は食事を許されなかった。
 寝る時間もままならぬ重労働と、命をつなぐだけの貧しい食事。それに性病が蔓延していた。飯盛女の寿命は、長くても三十歳と言われている。生まれ故郷から迎えが来る訳でもなく、亡骸は牛首山に捨てられた。
 飯盛女は私娼で公には認められていなかったので、宿主は一人当たり幾ばくかの金数を代官に渡して許しを乞うていた。従って、逃亡者が出ると、探索するのは組織ぐるみ、代官の手下であったから、逃れられる女はほとんどいなかった。捕らえられて拷問を受け、殺される者も少なくなかった。見せしめでもあったろう。

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