「へえ。確かその曲『海の上のピアニスト』って映画にも出てきたんじゃないかな」
「そう! “踊り続けないと、毒が回って死ぬ”ってやつだよね」
彼の口から出た『タランテラ』に、自分でも驚くぐらい声が上ずるのを感じた。
「恐ろしいけどちょっと幻想的で、いかにもイタリアの伝承って感じで――」
「へ、カンナさんなに言ってんすか」
坂田くんが、はっ、と笑った。
「タランチュラに噛まれた人が、いてっ!ってジタバタしてる様子が滑稽で、まるでダンスしてるみたいってことでしょ、その伝承。『タランテラ』って喜劇的な、明るい曲っすもん。だって」
え、と発したつもりだったが、喉は空気を震わせなかった。坂田くんはケージのクモから目を離さずに言う。
「だってそもそもタランチュラ、毒ないですし」
私はいつのまにか冷たくなった二の腕をさすった。右手の指が、あるはずの噛み跡を探して這いまわる。
「俺の聞いた説が違ってたのかな」
黙りこんだ私を見て、自説を否定されて気分を害したと思ったのかもしれない。坂田くんはわざとらしく時計を確認し、「お先っす」とギターケースを背負って出ていった。昆虫たちと私だけが残された。
そうか。お前は毒なんて持っていないのか。
薄暗い店内で、私は意外な事実にも冷静に納得していた。ケージの上蓋をむしりとると右腕を中にいれ、隅でじっとしているタランチュラを乱暴につかみ出す。指の間から冷凍コオロギが床にこぼれた。腸詰めのような八本足に生えた細かな毛が、ふつふつと私の肌に食い込んでいく。柔らかいが温度はない。その毛が一本ずつ肌に刺さるたび、私のシナプスが強引にたぐられていく。私は確かに知っていたのだと。この足を止めても、決して死ねやしないということを。
大蜘蛛の複眼は、私の両目を捉えて離さない。私は粟立った右手に力を込めた。