小説

『タランテラ』結城紫雄(『蜘蛛の糸』芥川龍之介)

「今日もこの後練習、あるの?」私はギターケースを指差して言った。坂田くんは毎日ギターを背負ってアルバイトに来る。彼は二年前に音大を中退して、今はアマチュアバンドのギターとして夢を追いかけている、らしい。彼に昔もらった自主制作CDは開封されないまま本棚のどこかに仕舞ってある。
「今日は朝まで練習っす!」坂田くんが意味もなく胸を張った。
「そう。がんばってね」
 フリーターのバンドマンなど東京には掃いて捨てるほどいるだろうが、坂田くんは上京するときにマンションと自家用車を買い与えられたという生粋のボンボンなのだ。彼が軽量スプーンで丁寧にグッピーやベラの餌やりをしている姿を見るたびに私は少しぎこちない気持ちになる。
 タランチュラはミルワームよりもコオロギを好んで食べるようだ。獲物に毒を打ち込む様子が見たくて捕食のときに注意深く観察してみるのだが、毛に覆われた顔からは何も読み取れなかった。

 「君は書く才能があるよ」「カンナちゃんは記者か小説家にでもなったら」。学生の間はずっと周囲にそう言われ続けてきた。小学校から大学まで、国語の時間や作文コンクールや実践論文の講義のたびに。
 私に何らかの才能があるとするならばそれは文才などではなく、周囲の言葉に耳を貸さなかったことだろう。私は決して驕りはしなかった。彼らが嘘をついていたとも、いたずらにもてはやそうとしていたのだとも思わない。彼らの多くは真摯で実直だったと思う。同時に、ただひたすらに無責任だっただけなのだ。私が大学を辞めて小説家になると宣言しようものなら、皆私を笑うだろう。ならばどうしてあのとき褒めてくれたのだ、と私が叫んだとしても、無邪気な彼らは顔を見合わせて困惑するだけだ。
 大学を卒業した私はギアの受注数をエクセルに打ち込み、打ち合わせがあればお茶を汲み、インクの出ないボールペンを捨てたりして日々を過ごした。土日には誰にも見せるあてのない小説を書き、制限字数や締め切りがたまたま合えば小さな公募に応募した。そんな生活が三年ほど続いたある日、私の短編小説が賞を受賞した。
 地方の文学賞を獲得しても、もちろん生活は何一つ変わらない。賞金は執筆用のパソコンを新調したらなくなってしまった。5万円を使いきったことで多少心は落ち着いた。しかしこの一件は、インターネット上の作品掲載が終わり世界から受賞に関する一切の痕跡が消えた後でも、私の体に確かな噛み跡を残す。どうやら私には文章を書く才能がいくばくか残されていたのだという、それはむず痒い刻印である。

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