小説

『タランテラ』結城紫雄(『蜘蛛の糸』芥川龍之介)

 大学を卒業してから正社員として勤めていたのは、国内では数少ない遊星歯車機構と呼ばれる部品の製造会社の事務職で、面白くはないが激務ではなかったし残業も少なかった。自分の会社が作っていた遊星ギアは業界2位のシェアを占めていたらしいが、それが一体何の役に立つ代物なのか今でもうまく説明できない。しかしそれで十分だった。
 残業がなければ空いた時間に本を読むことができたし、土日には趣味で小説を書く時間も十分にあった。大学の文芸サークルの同期からは一人が出版社、二人が新聞社に就職したが、仕事が忙しくて書く時間はおろか読書をする暇さえないという。私は身の丈を理解していてよかったと、彼らの話を聞くたびに思う。花形企業で働く彼らの優秀さと比べるまでもなく私は凡人だったし、それをのみ込めていたおかげで今も細々と小説を書き続けることができていたのだ。

 タランチュラは普通のクモが持つ八本足のほかに、頭部に一対の手のような部位を持つ。その器官でコオロギを押さえつけて食べる、ということを私は初めて知った。タランチュラはめったに餌を食べないらしく、捕食シーンは貴重である。
「カンナさんがバイト入る少し前ですかね、蓋の隙間からサソリが脱走したことあるんですよ」
 閉店後、ケージの虫たちを点検していると坂田くんが声をかけてきた。すでにバイトの制服を脱ぎ、ギターケースを背負っている。脱走の危険がない熱帯魚担当は閉店作業が一つ少なくて済む。
「サハライエロースコーピオン、だったかな。毒があるやつ」
「ええ、おおごとじゃない。そのときはどうしたの?」
 私は作業の手を止めて目を丸くする。昆虫の個々の特性には未だ詳しくないが、サソリの多くが猛毒を持っていることぐらいは知っていた。坂田くんはコーカサスオオカブトのケージを熱心に見ながら言葉を継いだ。
「昆虫コーナーのケージを全部駐車場に出して、店ん中でバルサン5個ぐらい焚いたっす」
「うわ、やばいね」
「バルサンの煙でガス警報機はギャンギャン鳴るし、めちゃくちゃ大変でしたよ。でも、その後どこ探しても死体が全然見つかんなくって」
 坂田くんは半分ほど照明が消えた店内を見渡すと、いたずらっぽく笑う。
「まだどっかにいるかもしれないっすね」
「でも私はそのサソリに感謝しなきゃ。ヘマしたバイト君の首が飛んで、代わりに私が雇われたのかもしれないから」
「あながちそれいいセンいってるかも。店長には口止めされてるんすけど……今の内緒っすよ」
 そういえば私がアルバイトとして雇われてからタランチュラが届くまで、この昆虫コーナーに毒虫の類いは一匹もいなかった。

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