汗をだらだら垂らし、声の限り歌うメロスであるが、何度やってもカラオケの採点機は、メロスの叫びをせせら笑う如く、七十点台を連発する。声も嗄れ嗄れに、夜も更け疲労と眠気で困憊状態のメロス。次第に諦めの気持ちが浮かんできて、メロスが送別会を開いてくれている社員たちの様子を見れば、皆がメロスの退職を惜しんでくれていることに改めて気づく。果たして本当に、この会社を辞めてまで、M屋で働く必要があるのだろうか。今のままであれば、超一流営業マンである私の将来は安泰、たとえばほら、あそこで前屈みにお尻を突き出しながらカラオケのリモコンを取ろうとしている営業部のマドンナ美紀ちゃんを口説いて、あのプリプリしたお尻を意のままにすることだって可能かもしれないのに。悪魔の囁きが、メロスを追いつめていく。ああ、私はたしかに頑張った。八十点を出すために、声の限り叫んだ。それでも駄目だった。セリヌンティウスよ、許してくれ。正義の男メロスは、本気だった、欺くつもりなど、微塵もなかったのだ。信じてくれ。メロスはとうとうマイクを完全に置いてしまい、深く項垂れた。
そうして己を嘆き、肩を落とすメロスの元に、聞き覚えのある曲が流れてくるのであった。美紀ちゃんが他の社員と話す声が耳に入ってくる。
「あれ美紀ちゃん、いい曲入れるじゃない」
「本当ですかあ? ワタシこのあいだ二十四時間テレビでマラソン見てたらすごい感動しちゃってえ〜」
ZARDの「負けないで」であった。体の内から力が漲ってくるような、そんな前奏に体を任せる。セリヌンティウス、悪かった。先程までの私は、私でない。悪夢を見ていたのだ。今に、本当のメロスは帰ってくるぞ。メロスは鞭打たれたように立ち上がり、美紀ちゃんの方へ近づき、
「美紀ちゃん悪いが、そのマイクを貸してくれないか。あと、今度の機会で構わないから、そのかわいいお尻の方も」
と、美紀ちゃんのマイクを奪い取った。
「セクハラですか、メロスさん。訴えますよ」
マイクこそ受け取ったものの、訴えますよ、と強い口調で言われたメロスは、これでもう会社には何の未練もない、私は私の道を生きていくのだ、と心の内で呟き、「負けないで」を熱唱する。喉が千切れんばかりの大声で、音域や声量をも超越した声で、メロスは熱唱したのである。そうして、採点画面に表示された「80」の数字。それを見たと同時に、メロスはカラオケの部屋を飛び出していった。