小説

『勝ち山』外﨑郁美(『カチカチ山』)

 由奈が握る手をさっと振り払うと、由奈は明らかに傷ついた顔をした。そしてみるみるうちに悲しげな表情になり、手で顔を覆い出した。ラブホの前で女を泣かせている男。この構図はまずい。山下は慌てて由奈の肩に手を乗せ、顔をのぞき込んだ。

「大丈夫か」
「ダメですか?好きになったら……」

 顔を手で覆いさめざめと泣く由奈を、山下は本能的に抱きしめた。

「カシャッ、カシャッ」
「カシャッ、カシャッ」

 近くでシャッター音が小さく響いては、雑踏のなかに消えていく。山下にはそれに気づく余裕すらなさそうだ。
自分の腕の中にいる由奈を見て、こんな気持ちは何年ぶりだろうと山下は思った。恋愛って、こんな感じなんだっけ?山下は淡いノスタルジーに浸っていた。



 信子が休職して数日後、ある夜のカフェ。店の奥のほうにひっそり座るのは、智と由奈だ。母の信子を苦しめた主格犯が山下だと知った智は、山下の人間関係を調べ狂い、その結果つながったのが由奈だった。由奈は偶然にも智と同じ大学の学部の先輩だった。人数の多い大学で、学年も違ったため直接の知り合いではなかったが、二人の専攻は「ジェンダー」や「女性の人権」関連のテーマで一致していた。

 最愛の母信子を傷つけた山下に復讐すべく、智も正直どうしたらいいかわからず感情が溢れるまま由奈に相談したのだが、智の話を聞くにつれ、由奈の怒りは智を越えるほどの域に達した。何より由奈は信子を尊敬していたのだ。信子が部長に昇格してからわずか3ヶ月で休職することになったとき、由奈も大きなショックを受けていた。山下の態度や言動の端々に信子への無言の圧力がかかっていたことを傍目にも感じていた由奈は、これまで信子に手を差し伸べてあげられなかった自分に落胆し、後悔していた。そして由奈はジェンダー論者でありフェミニストだ。今回のこの事態を許せるはずがなかった。

 山下は由奈にとって直属の上司だった。1年前に山下が営業部に異動してきたとき、正直なところ、アラフィフという年齢ながら男としての色気をまとい、精悍な顔つきで仕事に向き合う山下をちょっとカッコイイとすら思っていたのも事実だ。誰を相手にしても動じない安定感。決断の早さ。そして不可能と思える提案の道筋を切り開く力強さと強引さ。山下の「男気」とも呼べるような性質は、難しい仕事を進める上では尊敬に値するほどうまく機能していた。
 だからこそ、信子が総務局から異動してきてからというもの、山下が急に大人げない姿を見せるようになって由奈は少し動揺した。同期でのなかでも有望株としてこれまでの道を歩んできた山下はある意味、入社以来大きな挫折を味わったことがなかった。約25年の時をかけて形成された万能感ともいえる自信とプライドが、総務局から彗星のごとく現れた信子によって、一瞬で打ち崩されたのだ。山下は50歳も近い大人から思春期の不安定な少年みたいに子ども返りし、へそを曲げた。しかしまわりの社員たちから見たら山下は、地位も実力も権威も兼ね備えた男。もし彼が若手社員だったなら、いさめてくれる大人がいただろう。けれど圧倒的に優位な立場にある今の彼の行動は、立派な「パワハラ」になってしまう。

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