小説

『潮の流れに杭を打て』赤沼裕司(『浦島太郎』)

 年に一度だけ彦星に会いにいく、「そりゃ乙姫みたいだな」と社長が織姫と乙姫を間違えて、以来社長は彼女を乙姫と呼ぶようになり、亀山も裏ではそう呼ぶようになった。
 乙姫も当初は亀山と似た悩みを抱えていたようだが、亀山との8年間の年の差(その分スタッフのセンスも若かった)と、持ち前の人たらし力で、特に自ら若手のスタッフを求めずとも、幾多の仕事をいなしていった。

 亀山の気持ちもわかる。年上ばかりの中で仕事はやりづらいものだ。幸いこの健康シューズのオーダーは、僕にとってもひどく難易度が高いというものでもなかったので、彼と仕事をしてみることにした。
 結果は悪くなかった。健康シューズのラインナップを一気に紹介する映像というのが今回のメインだったのだが、単に写真を見せていっても面白くないから「実際にシューズを履いた女性が歩くところを、足アップで撮影してみるとかどうかな?」と僕は提案した。
 ランニングマシンを借りてきて、カメラの位置とアングルは固定したまま、モデルさんが靴だけ履き替えて何度も同じように歩いてもらえば、歩きの一連の動きの中で靴だけがパッと変わる、というちょっとギミック的な映像を作れる。
 その案を亀山はとても喜んでくれて、面倒がるクライアントを説き伏せて、靴のサンプルをどっさり借りてきてくれた。ランニングマシンを手配して、デザイナー女子を一晩拘束し、ひたすら靴を履き替えて歩いてもらった。
 この映像が、イベント本番に来ていたクライアントの営業部長に受け、全国の取引のある大型靴店に、小さなモニターを置いて流されることになった。
 クライアントは、他案件で制作した映像を流用する形になり、通常なら制作プロダクションは使用料を要求するところだが、亀山は少しの手数料だけでこれをOKした。亀山のクライアントからの信頼は一気に厚くなり、亀山は彼のチームの一員として、僕を組み入れることにした。

 社長と乙姫から入社の誘いがあったのはその3ヶ月後、ドラゴン社との二度目の仕事の時だった。今度は美容食品の販売スタッフを表彰するイベントだったが、亀山に呼ばれて打合せに行くと、今回は社長と乙姫も同席していた。
 打合せの冒頭、健康シューズの映像の評判がよくて助かっているという簡単なお礼をもらい、すぐに告げられた仕事内容は、いわゆる「撮って出し」というものだった。イベントの様子をビデオカメラで撮影しながら同時並行で編集し、そのイベントの最後にエンドロールとして流すという、結婚式などでよくやるものだ。
 このイベント自体は乙姫の担当だそうだが、ドラゴンエージェンシーにしては規模の大きめの仕事なので、社長も亀山も現場対応に駆り出されていて、映像に関して僕に一任したい、という意向だった。
「撮って出し」というのはひどくプレッシャーがかかる仕事だ。何しろ「間に合わなかったら終わり」。神経も体力も、削られ方が割りに合わない仕事なので、現在の僕なら断るのだが、当時は若かったし、僕の方でも亀山に対する仲間意識が芽生えてきていたし、乙姫にアピールしたいという気持ちも、あったように思う。

 乙姫は僕にとって、魅力的な女性だった。小柄だが物怖じしない貫禄。意志の表れたような黒髪。眉毛に前髪の軽くかかるショートボブ。切れ長の目はクールで、暗めの口紅と親和しているが、時々見せるスマイルは完全にキュートで、攻守を兼ね備えている。

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