小説

『ふりゆくものは』新発田瞳(『雪女』)

 実は彼女の母親は、逗留先の京で首をくくっていたのだ。京をすぐに離れていたゆえ彼女は知らなかったが、娘の死後わずか十四日で母も後を追ったのである。
「父上は生きて出羽に戻られましたが……私のせいで母上が自害したのです、合わせる顔がなくて……京に戻っても母上の御霊(みたま)がこの世にいらっしゃるかも分かりませんし……」
 かといって彼女の無念が晴れたわけではない。哀れこの姫は進むことも戻ることもできず、この越後の国を――奇しくも、天険の要害として知られる親不知子不知で――二百年も孤独にさまよっていたのである。
 越後の冬は、やがて彼女を雪と氷のあやかしに変えてしまった。この地の冬の厳しさは、彼女の清らかな魂を蝕むのに充分だった。
「いつからか、生きた人すべてを恨まずにおられなくなり……なぜだか分かりませんでしたが、とにかく憎くてならなかったのです」
 「申し訳ござりません」と小さく謝った。恐らく茂作のことを言っているのであろう。
「それでも……私は巳之吉様に出会えて、本当に幸せでござりました。私は夫婦というものを知らぬままその制度によって死を賜りましたが……家族を新たに得るというのはいいものでござりますね」
 弱弱しく笑いかける彼女を見て、巳之吉はぎくりとした。なぜだか、いやな予感がしたのだ。寒いのに汗が背を伝ってゆく。
「な、何じゃ改まって……縁起でもない」
 我知らず、抱きしめる腕に力が入った。そうしなければならぬと無意識が命じた。
「お前がえ死人(しびと)なら何だって言うんじゃ……これまでだって、上手くやってこられたじゃろう」
 彼女は首を横に振った。
「何でじゃ!」
「私の心が晴れてしまいましたゆえ」
 恨みも無念もとうに無い。巳之吉との穏やかで愛情に満ちた日々が、彼女の心を溶かしてしまったのだ。
 とたんに戸が開いて、轟音と共に雪が吹き込んできた。――いつかと同じだ。顔を容赦なく雪に殴られ、ほんの一瞬目を閉じてしまった。絶対にそうするべきではなかったのに!
「お駒!」
 吹雪に負けぬよう、必死に愛する女性の名を叫ぶ。
 目にも口にも雪が入り、耳鳴りもする。――いつの間にか両の腕が空になっていた。
「お駒、お駒!」
 激しい雪嵐の中何とか這う様に外へ出たが、どこにももう妻の姿はなかった。

 
 越後の冬は、厳しく長い。
 見渡す限りの雪の崖。その向こうに、雪の様に真白な桜が一枝、ほんの一枝ではあったけれども、確かに陽の光を浴びて輝いていた。

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