小説

『ふりゆくものは』新発田瞳(『雪女』)

 確かに手荷物はない様だが本当に何も持たずに旅をするはずもないから、かわいそうに、きっと物取りにでもあったのだ。巳之吉は辺りを見渡しながら続けた。
「連れはどこじゃ。おるんじゃろ」
「……一人なのです」
 ――何ということだ!物取りに殺されたか、あるいは親不知子不知の下で波に呑まれたか。いずれにせよ相当心細い思いをしているに違いない。巳之吉はこの娘を不憫に思い、ゆっくりとこう告げた。怖がらせてはならぬ、と考えたのだ。
「すぐそこにわしの家がある。下駄を直してやるすけ、来てはどうじゃ」
 大きな手をそっと差し出すと、娘は遠慮なくその手を取った。
「まぁ、ご親切に。ありがとうござります」
よろけながら立ち上がると、娘の顔が巳之吉の胸のあたりに来た。こちらを見上げる顔は、巳之吉の親切を疑いもしない穏やかな表情をしている。事実巳之吉の心にやましいことは一つもなかったのだが、よくよく考えると不用心な娘である。
 彼女の足が、旅をして来た者のそれとは思われぬほど僅かの汚れもないことに、ついに巳之吉は気が付くことはなかった。

 娘は京より故郷である出羽の国(現在の山形県)を目指して旅をして来た、と告げた。名はお雪という。話しながらゆっくり歩いてきたことが災いして、下駄を直し終える頃にはもう日は沈みつつあった。
「見ての通りの田舎じゃ、旅籠なぞ無ぇ。悪いことは言わん、泊って行ったらどうじゃ」
 この申し出には、さすがのお雪も目を丸くした。そこで巳之吉は初めて自分の提案がどう受け取られるものか気が付いた。
「勿論嫌なら無理にとは言わんすけ。ただほら、危ないじゃろう」
 思わず、少し早口になる。
「ほら、そこに死んだおっ父(とう)の布団がある。お前はこれで寝たらええ」
 我ながら滑稽なほど必死の様子の巳之吉に対して、お雪はあまりにもあっさり「では、遠慮なく」と答えたのだ。不埒者だと思われぬように懸命だった巳之吉は、途端に拍子抜けしてしまった。勿論悪さをしようなどとは毛頭考えていないのだが、お雪は気にならないのだろうか。
 ――とは言え若い女性が泊まることにはなったのだ、健康的な十九の青年の胸が躍らぬはずはなかった。彼はいそいそと夕飯を二人分こしらえた。
「こんな飯食ったことないじゃろうが、田舎がこれが限界じゃ。堪忍してくれ」
 雑穀にありったけの野菜を混ぜて炊いてやった。
「美味しゅうござりますわ」
「無理せんでええ。その着物じゃ、普段相当いいものを食っとろうに」
「私(わたくし)、野菜が好きなんです」
「そうか、なら良かったが」
 取り留めのない会話。父親が死んで五年、これほどうまい食事があっただろうか。村の女達とは違う上品な言葉遣いが、新鮮に心地よく胸に響いた。

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