小説

『ふりゆくものは』新発田瞳(『雪女』)

 その刹那、雪女は突然茂作に息を吹きかけた。真白な息はきらきらと輝いて茂作の鼻先に触れ、彼の体いっぱいに広がり、見る間に彼を凍らせてしまった。
「ひ……!」
 巳之吉も逃げ出したいのだが、体が言うことをきかない。腰に力が入らない。彼の鍛えられた四肢も、この時ばかりは何の役にも立たなかった。
 雪女は氷漬けになった茂作の脇を通り、悠然と巳之吉の前に座り込んだ。
 もうだめだ――!
 例の青白い瞳が巳之吉に注がれる。
 ところが、二人の目が合ったまさにその時、
「そなたはまだ若く、美しい。命はお助けいたしましょう」
そう告げると、雪女は音もなく立ち上がった。
 呆然とする巳之吉に向かって、女は表情を変えることなく続けた。
「ただし、今宵のことは他言してはなりません。ゆめゆめお話しなさりませんよう」
 壊れたゼンマイの様に、巳之吉はただただ頷く。雪女はつららの様な瞳で彼を見下ろすと、夜闇にすっと消えていった。

 
 越後にも春がやってきた。
 道々には今を盛りとばかりに桜の行列だったが、世の男の大多数同様巳之吉は気にも留めない。可憐な桜の花の供宴よりも、隣の村に持っていったウサギ肉と毛皮が良い値で売れたことの方がよっぽど有難かったのだ。
 ――これでしばらくは暮らしに余裕が出来るな。たまには肉でも食いたいが……。
 次の関心事は今夜の食事である。足取りも軽く、まだまだ明るい夕方の道を急いでいた時のことだった。彼は桜の木のたもとにうずくまる女を見付けた。
「おい、どうしたんじゃ」
 おずおずと顔を上げた女の顔を見て、巳之吉ははっとした。
 これほど肌の白い女にこんな寒村で出会おうなどとは、誰が予想できたであろうか。
 確かにここは冬が長く、その他の季節も曇りがちである。それでも皆畑を耕して何とか生きているのだ。巳之吉をはじめ、皆それなりに日焼けしていた。ところがどうだ、この目の前の女は。
 肌は日を浴びたことがないかの如く真白で、髪にはしっかりと櫛が通っていて艶があった。
そして長いまつ毛の向こうに見える瞳が、夕暮れのやわらかい陽ざしの下淡い栗色に光っている。年は十五ぐらいだろうか。
 巳之吉には詳しいことはわからないが、着ている着物も上等そうだ。あの時茂作が着ていたものよりずっと良いものだろう。
 明らかに村の女ではなかった。いや、そもそも農民でもない。どこか良い家の娘であろう。
「……困っとるようじゃが」
「えぇ。実は鼻緒が切れてしまいまして……」
 見ると確かに鼻緒が切れている。これでは歩けないだろう。
「何か端切れはないのか、直しちゃる」
 巳之吉は娘の横に屈みこんだ。ふんわりといい香りが漂ってくる。桜の香りか、この娘の香りか。
「それが……何も持たぬ旅なのです」

1 2 3 4 5 6 7 8 9