小説

『ふりゆくものは』新発田瞳(『雪女』)

 越後の国(現在の新潟県)には親(おや)不知(しらず)子(こ)不知(しらず)と呼ばれる断崖がある。
 山の斜面が日本海の荒波のために直角にえぐられて、そのまま崖になったと言われている交通の難所で、旅人は僅かに残された砂浜をそれこそ死ぬ思いで通り過ぎるのが常であった。
 さて、突然のひどい吹雪によって、その山に閉じ込められた二人の猟師がいた。
「難儀なことじゃ。着物が台無しじゃわい」
 運よく見付けた薄暗い山小屋の中、年とった方の男は神経質そうに着物を払った。雪は彼の肩の上でとっくに水に変わっているのだから払ってどうなるものでもないのだが、やめる気配はない。
 そもそも猟に来るのに縮緬(ちりめん)などという値の張る着物を着てくる方がどうかしている。これこそ成り上がりの悲しい性で、彼は二度と貧乏たらしい装いをすることに耐えられなかった。
「なあ、茂(も)作(さく)どの」
 もう一人の若い方の男、巳(み)之(の)吉(きち)は出し抜けにこの哀れな成金に声をかけた。
「お幸(さち)はどうしておろうか」
「何じゃ、お前(めえ)まだお幸のことを言うのか」
 茂作は眉をひそめた。
 お幸というのは茂作の娘のことである。彼女は元々巳之吉と公然と好き合っていたが、親よりもさらに年上の金持ちの庄屋と縁付いたのである。これこそが茂作の分不相応な着物の秘密であった。
「あまり夫婦仲が良くないと、村中が噂しちょりますけ」
 巳之吉は控えめに、しかしひるむことなく続けた。身なりは見すぼらしいが、生命力の溢れる若い肌と精悍な眼差しは、茂作にある種の恐れを感じさせるのに十分だった。彼の瞳は部屋の隅を泳いで回った。
「夫婦のことは本人達の問題じゃけ、わしは知らぬ。ただ、庄屋どのと結婚したすけ、お幸は毎日いい着物を着て、髪も結うてもらえるそうじゃ。いい暮らしをしちょるんじゃ、不幸なわけあるめえ」
 贅沢な暮らしをすることが必ずしも幸せだとは限るまい。巳之吉が何か言おうとしたのを察したらしく、
「しつこいぞ、巳之吉。だいたいお前に嫁がせて何の得がある。お前の様な文無しの甲斐性なしに……」
そこまで言いかけた時だ。
 突然扉が開いて、大雪がごうと吹き込んできた。目を開けていられない。耳鳴りもする様だった。
 ――何刻ほど経ったであろうか。顔をこすりながら巳之吉はようやく目を開けて、全身の毛が粟立つのを感じた。
 あまりにも肌の白い……と言うには白すぎて、生きた血の気の感じられない女が、ぼうと戸口に立っていたからだ。

 巳之吉は声が出せなかった。喉が引きつって、息が出来ない様に思われた。いまだかつて、親不知子不知の崖下を通る時ですら、山で子連れの熊に出くわした時ですら、これほどの恐怖を覚えたことはない。
 白い女は氷の様に透き通らんばかりの髪を風になびかせながら部屋に入り、悠然と茂作に歩み寄った。
「ゆ、雪女じゃ……!」
 茂作は悲鳴とともに後ずさるが、足が縺れて動けない。気が付けば女は茂作の眼前にかがみこんでいた。青白い瞳が茂作を捉える。

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