小説

『女神の湯』西橋京佑(『金の斧』)

ツギクルバナー

 小籔太郎は悩んでいた。給料が低い、残業が多く友達となかなか遊べない、会社に行くまでの道にいる犬が怖い。
何をつまらないことを、と言う者がいるかもしれない。しかし、小籔太郎にとっては切っても切り離せない目の上のたんこぶのようなものであった。
「ああ、なんとかならないかな」
 小籔太郎はいつもボヤいていた。ボヤくこともまた、彼の仕事のようなものだった。

 ある時、小籔太郎はスーパー銭湯にいった。彼にとって、スーパー銭湯は心のオアシスであった。特に、ドライサウナがそうだった。ジリジリと赤外線を浴びて、開かれた汗腺から滲み出る脂汗をサラリとタオルで拭く。
「まいった」
 小籔太郎は心で呟いた。それは、彼の最上級の褒め言葉であった。
 水風呂に入り、目を瞑って汗が吹き出るのを抑えたあと、小籔太郎はようやくいつもより周りの人が少ないことに気が付いた。というよりも、内湯に人が少ないようであった。どうやら、露天風呂エリアに新たなお湯ができたらしい。大学生が2.3人つかるメインの内湯を横目に置きながら、小籔太郎は静かに露天風呂エリアに移動した。
「7年も通っているのに、こんなこと初めてだな」
 常連を豪語する小籔太郎からすれば、新参者の顔を見ない訳にはいかない。そういう訳で、水風呂の後は座湯でボンヤリするというルーティンを初めて破り、物珍しげに新たな湯を眺める人々を掻き分けて小籔太郎は一番前に躍り出た。
「女神の湯」
 看板を読むと思わず隣の人の声と被って、はにかみ笑いをした。いかにもグロテスクな色をしているその湯は、まさに今月オープンしたようである。と言うのも、そう看板に小さく書かれていたからだ。
 女神の湯、と言えどもまさか甘美な囁きが聞こえて来ようとは思えない見た目に、人々は恐れおののいていた。熱いのか、炭酸ガスが強いのか、とにかくお湯の表面にはブクブクと大きな泡が膨れては消えていく。
「誰も入れねえな、こんなんじゃ」
 小籔太郎がライバルと密かに認める、齢70を優に超えるであろう常連の爺さんが呻いていた。周りの人々も同様に、つかることを諦めて思い思いの好みの湯へと別れていった。

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