小説

『女神の湯』西橋京佑(『金の斧』)

「ああ、なんとかならないかな」
 小籔太郎はいつもボヤいていた。ボヤくこともまた、彼の仕事のようなものだった。

 その日、小籔太郎はスーパー銭湯にいった。彼にとって、スーパー銭湯は心のオアシスである。特に、炭酸風呂がそうだった。医療技術を応用し、体の中に直接気泡を浸透させて血管を拡張させるそのお湯は、何よりも体を温めるものだった。
「まいったなあ」
 小籔太郎は心で呟いた。それは、彼の最上級の褒め言葉であった。

 炭酸風呂は、露天風呂だった。これぞ至高の喜びといった笑みを浮かべながら、岩風呂・壺湯・寝湯とお気に入り順に並ぶ風呂たちを見やった。その端に、見慣れない形のお湯があった。よくある温泉のように淵がゴツゴツした岩で固められている訳でもなし、地面に急に穴が開いたような、コンクリートとお湯の境界線が全くない不思議な温泉だった。
 小藪太郎は、その不思議な温泉が妙に気になってチラチラ見やっていた。
「やっぱりそうだ、新しくできたんだ。ここにも7年通ったけど、新しいお湯というのは初めてだなあ」
 気になるのは、その周りに人がいないこと。むしろ、誰もその温泉に気がついている素振りを見せていないことが不思議であった。
 ちょうど空いていたこともあり、小藪太郎はいそいそとその新入り風呂に急いだ。訝しげにそのお湯を覗き込むと、じんわりと脇の下に嫌な汗が垂れるのを感じた。なにしろ、マグマのようなドロっとした泡ぶくが浮かんでは消えていくのだ。しかし、看板にある「願い叶えます」の文字を見るや否や、小藪太郎の迷いは消えていた。えい!という一声でその風呂に飛び込んでいった。
 小籔太郎は、いつも周りを出し抜く機会を虎視眈眈と狙っている。自分が幸せになれるなら、ど思われようがやってみようという男であった。

 小籔太郎は、ゴボゴボと真っ暗な風呂の奥底に落ちていった。何度もがこうとも、お湯の上に戻ることはできない。
「溺れて死ぬことだけは嫌だったのに…」と思いながら、助けを呼ぶために水中特有のくぐもった声で叫んだ。しかし、やはり声は誰にも届きそうにもない。ゴボゴボとうがいのような音だけが、水中に浮かんでは消えていった。

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