小説

『女神の湯』西橋京佑(『金の斧』)

 はあ、と女神は深くため息をついた。
「まあいいや。そしたら、毎度お馴染みのファイナルジャッジね」
「ファイナルジャッジ?」
「そう。私の手を見て」
 そういうと、女神は両手を上に向けて胸のあたりまで挙げた。
「左手は、これまで通りの生活。右手は、あなたの望みが叶っている生活。どちらかを選んで、私の手を握って」
「そんなの、右手に決まってるじゃないですか」
「そりゃね。でも、1つだけ条件があるわけ。もう、うるさいな」
 ゴホン、と女神は咳払いをした。
「望みが叶う代わりに、記憶が少しだけなくなるの。それがどれぐらい消えるか、どれぐらい生活に影響があるのかは、はっきり言ってよくわからない。そのリスクを取りたくないなら左手を握って」
「はい」
 小籔太郎は既に女神の右手を握っていた。
「…ほんとに、あなたのこと嫌いになりそう」
 そう言うと、女神は目を瞑った。ブツブツと、日本語でも英語でもない言葉を唱え続けた。二人の周りがどんどんと白く光り始める。小籔太郎はゆっくりと目を瞑った。頭の内側から、キンキンとした音が外に抜けていった。最後に、少しだけ目を開けてうっすらと消えゆく女神を見やった。
「もう、来ませんように」
 女神はそう呟くと、ぐるりと背を向ける。小籔太郎の視界はそのまま急に暗くなり、少しずつ体が上へ上へと持ち上げられているような感覚を覚えた。まぶたの裏側から、ロゼ色や象牙色が流れては消えて、暗闇に戻っていく頃には頭が異様なくらいにスッキリとしていた。スッキリとしすぎて、頭の中からスコンと何かが消えてしまった。その何かすら小籔太郎にはわからないし、とにかくどうでもいいものだった。

 
 あくる日、小籔太郎は悩んでいた。胃腸が弱い、女性とうまく喋れない、汗をかきやすい。
何をつまらないことを、と言う者がいるかもしれない。しかし、小籔太郎にとっては切っても切り離せない目の上のたんこぶのようなものであった。

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