小説

『女神の湯』西橋京佑(『金の斧』)

 5回目に、今度は向かって右側と思われる方に叫ぶ。しかし、物音はおろか自分の声すら響いて聞こえない。代わりに、真空空間のようなシンと沈黙が張り詰める音がした。
 小籔太郎は、しばらく低い電子音のような沈黙の音に耳を澄ましていた。このまま一生ここから帰れないのではないか、そんな不安が彼の頭によぎり始める。
 すると、かすかに布の掠れる音が自分の左耳の方から聞こえてきた。小籔太郎は静かな声で、えっ、とだけ漏らした。
「はいはい…なんでしょうか?」
 めんどくさそうな、若い女性の声だった。しかし、声が聞こえた方向を向いても誰もいない。
「…あ。またかあ…」
 チッ、と舌打ちが後に続いた。突然耳元で喋られたような感じがして、小籔太郎はビクッと振り向いた。すると、そこには天女が羽織るようなロングドレスを着た、いかにも気だるそうな女性が立っていた。
「はいはい、アタシが女神ですけど。また用ですか?」
「またって、初めて…ていうか、ここどこですか?」
 女神は頭をぐちゃぐちゃと両手でかいた。
「ここは女神の湯の中。入ったでしょ、あんた?」
「ええ、まあ…なんか、願い事叶えるって書いてあったし」
「願い事を叶えるっていうか…まあくどいようだけど条件はあって…まあ、そうだね。願い事。叶えるよ」
 小籔太郎はドキドキしていた。ほんとにこいつは女神なのか?願いを叶えるってほんとに?ほんとだとしたら、めちゃくちゃラッキーじゃん!小藪太郎は感極まって、思わず女神の肩をつかんだ。
「叶えてください、願い。なんでもいいんでしょ?」
 女神はしらじらと、いかにもめんどくさげな顔で小籔太郎を見やった。そして、肩におかれた手をこっそりと払いのけた。
「まあ、いいけどさぁ…とりあえず言ってみて。でも、金持ちにしてとか、そういう野暮なのはやめてね」
「だめなの?」
「だって、堕落するだけでしょ?努力するための手助けなんだったらしてあげるってば」
 そうか…と小籔太郎は考え込んだ。
「ああ、じゃあ僕の悩み!給料が低くて、残業ばっかり、あとオマケみたいなもんだけど犬が怖くて…そういう状況を変えたい!」
「…話きいてた?」
「もちろん」

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