冬には恐ろしい鋼の猛りとなるが、夏の夜明けの碧海は、沖に霞む佐渡ヶ島まで歩いて渡れそうな夢を孕んでいた。
水平線に背を向けて広い砂浜を登りきると、朽葉色が一面に広がった。重石を置いた木羽板屋根が折り重なり圧しあいながら駅舎の向こう側まで連なっていた。
東西三キロのまちの海抜高低差は十数メートルにもなる。大通りを中心に、人が行き交えるほどの小道とさらに狭い路地が縦横に傾きながら入り組み、小路同士が簡素な石段で連結されていた。家々の軒先が途切れ、ふいに日本海が現れる「抜け絵」があちこちにあった。いつの頃からか人びとがそう呼ぶようになり、柱のような長方形から猫の抜け穴ほどのものまで様ざまだった。傾いた物干し場からの抜け絵を家宝のように喜ぶ家もあった。非対称に枝葉を削がれた松や刻々と変わる波、それに夕凪が見えた。
物流の起点であるまちには、佐渡の鯛や鰤、北海道の数の子、ショービキ、昆布―、あらゆる鮮魚と乾物が集散し、海鮮問屋は軒並繁盛していた。鰈や赤魚などの地魚とともに、豊かな平野でとれた米が港から積み出され、塩が荷揚げされた。
かつて、まちの外れに建つ金比羅さんの北の先にも砂浜が広がっていた。そこに十軒の家があった。月日とともに浜辺が削られてゆき、とうとう住処を追われた人びとは、まちの南東にある中砂原町へ移ってきた。狂風に苛まれる北の暮らしを離れて、極楽だ、安楽だ、と喜び合ったので、中砂原の一角は安楽町と呼ばれるようになった。越してきた十軒の中にさよの祖父母がいた。
明治の頃。土地特有の西北の烈風や家々の造りが仇となり、大火が度重なった。ある年には一晩で五百戸余りが燃えた。
旦那は艀で沖荷役
おっかさは浜で駄賃持ち
どの家庭も蓄財に専念したが、五年と空かず火事が出た。火の粉が建て直した家々に降りかかり、まちの活気もろとも焼き尽くした。
「どうせ、そのうちにまた燃えるすけ、無駄は打たんなだ」
何かを創意する気概は失せてゆき、向学よりも汗を流すことが上等になった。食糧と働く場に恵まれていたから、新たに何かを興こそうという者も出なかった。
明治末期、警察署が大規模な防火対策に乗り出した。屋上制限令を合図に木羽板屋根は一軒残らず瓦やトタンに葺き替えられ、それきり大火事がぴたりと止んだ。
海端の暮らしにも昭和の称号が馴染んだ頃、内田さよは生まれた。
父の文治は大工だった。母キヨヱは浜で荷を運び、さよを育て、中砂原の寄り合いに顔を出し、合間に長男の文太郎を座ったまま産んだ。当時、キヨヱのような浜荷役の女は三百五十人余りいた。