小説

『ヴロンド・ウィナース』鈴石洋子(『絵本百物語』より狐者異、「私の直江津」、「古老が語る直江津の昔」)

 怒鳴りつけられて以来、さよは酒盛りの晩に愚図らなくなった。皆と笑って過ごせば、いつまでも頭を撫でてもらえた。
 表で笛の音が響く。按摩の流しが辻を回っている。風向きが変わったのか、一度か細くなった笛の鳴りが再び息を吹き返し、近づいてきた。
 父の膝の中で、さよは昼間の底歩きを思い出していた。酒盛りの喚声は忽ち遠のいてしまい、しじまの向こうから波の子の生まれる水音が聞こえてきた。ふと、人差し指をすっと宙に構えて、小夜、とゆっくり書いてみた。遠くのほうで、輪郭を曖昧にしたまま、藁半紙の美女の気配が立ち上っては朧げになった。
(明日、賢さんに秘密を聞こう。あの人をまた見せてもらおう)
 誰の耳にも届かない宣言をした。

 太陽が傾いても、依然として無数の蝉が騒ぎ立てていた。じっとりと重い暑気が肌にまとわりつく。ここ数日とは打って変わり、風がそよとも吹かない。さよは文太郎を連れて出かけた。
 醸造場に行くと、賢二は少し前に出かけたという。引き返す道すがら、なんだかつまらなくなり「彦やにでも寄ろう」と誘うと、文太郎は、ちった行ってみるかと澄まし顔で応えた。姉弟は小遣いを持ち合わせないので、今度の一文店遊びに備え、密偵隊を決め込んで、彦やに続き宗六にも足を延ばした。
 なんかくんない、なんかくんない、子供たちがもみ合うのを掻き分けてひとしきり見て回ると、二人は手を取り表に出た。通りを照らす陽光はにわかに赤みを帯び、さっきまでの息苦しさが外気から抜け去っていた。近道の路地に入ろうとした時、
 「おーい、さよちゃん」
 振り返ると、賢二が通りの向こうで手を上げていた。隣には同年代らしき男が立っている。太い黒縁の眼鏡を掛けていた。
 駆け寄っていくと、賢二は脇に抱えた茶封筒から紙を引き抜いて、目当てはこれかな?と姉弟の鼻先に広げた。
 「ヴロンド・ウィナースだよ」
 あの女がいた。頭を掻きながら、賢二は、
「来週、一日だけ映画会をさ。若い者だけで上映するんだ。内密に進めて、直前にこのビラを撒こうって計画なんさ。だすけ、それまではさよちゃんとぶんちゃには秘密にしてもらわんきゃならん。こいつは小林っていうんだが、俺たち同級だった五人が中心になってやる。一回きりにせず、どんどん続けていこうって計画なんさ」
 様子を伺うように黙っていた小林は、ふいにさよの隣に寄って、
 「来週の月曜に試写をやる。君だけこっそり来るかい?」

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