小説

『ヴロンド・ウィナース』鈴石洋子(『絵本百物語』より狐者異、「私の直江津」、「古老が語る直江津の昔」)

 目当ての入り江は、子供たちの間で綿々と受け継がれてきた夏の遊び場だ。晴れた日はよく澄んで、牡蠣やサザエがたくさん獲れた。底歩きはここでするものと決めていた。友達は馴染みのない場所だろうが、よそでも構わず底歩きをしたが、一緒になって遊んでみる勇気がなかった。この入り江だけが特別に馴染んだ。
 すでに二十人ほどが遊んでおり、さよに声を掛けてきた。手を振って応えてから、岩場に屈み込むと、しばらく吟味した後、顔の大きさほどの石を選んだ。よい錘になりそうだ。
 ぬるい砂の感触を土踏まずで受け止めながら、片足をそっと海水に浸すと、暑さに虐められた体が一瞬で解け、頬が綻んだ。浅瀬の先には急な深みが待っている。石を抱いて境界を一歩踏み出した途端、波頭がなだらかにゆらめき、みるみる遠のいた。宙に浮かぶ感触を味わう間もなく、水深二メートル半の砂地に舞い降りた。
 方々から魚が寄ってくる。軽やかな水音が囁きかけてきて、
(きっと波の子が生まれる時の音だぞ)
 そう秘密のように思った。絶えず波の子が生まれ来る音が、胸いっぱいにまんべんなく染み渡った。奔放に変形し続ける光の網が、さよの体や魚たちを覆っていた。

 間もなくキヨヱが浜から戻る頃。脂の乗った鰯の焼ける匂いと煙が小路の方々から立ち上り始めていた。網引きが大漁だったのだ。
 さよは空瓶を抱え、文太郎の手を引いて出かけた。中砂原から南に上り下りして大通りへ出た。栄喜座、紅梅屋は芝居小屋で、通りの両端にそれぞれ構える。中ほどに建つ映画館は北星座、向かいや両隣には商店、料理屋、最先端のカフェが軒を連ね、職人の集住する一角もあった。菓子やおもちゃを売る一文店の「彦や」と「宗六」は、夏休みの小さな客たちで今日もごった返したことだろう。ずんぐりとして小柄な彦やの主人が、ようやくひと息といった風情で店じまいするのを横目に過ぎて少し行くと、姉弟は立ち止まり、割烹から漂う出汁の匂いを吸い込んだ。家にも近所にもない高級なものに触るような気持ちになり、競って鼻の穴を膨らませた。
 いつも醤油を買いに行くマル羽醸造場では、この家の次男、羽村賢二が店番をしていた。賢二は、長身を巻き足台に屈め、書き物をしていた。姉弟に気づき、傍らの紙を慌てて引っ込めようとした。
「おう、いらっしゃいませ」
 賢二の手にした藁半紙が一瞬ひるがえり、見たこともない女が現れた。目鼻立ちの全美なゆえに、濃密な気鬱が匂い立ってきた。女の翳りと異香に気圧され、姉弟が立ち尽くしているところへ馴染み客らしき年寄りがやって来て、かちゃいなるかねと声を掛けた。

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