小説

『玉手箱』東雲トーコ(『浦島太郎』)

 カーテンの隙間から光がこぼれ、珈琲の香りが微かに漂う午前7時。明人はベッドの上で寝返りをうちながら少しずつ目を覚ましていく。何度か身体を回転させてから、さらさらとしたリネンのシーツの感触を確かめるようにうつぶせになった。隣のリビングでは雪子が小さく音楽をかけ始める。夏の始めには必ずベベウ・ジルベルトのアルバム。
 いつもの朝の匂い、音、感触を感じながら、明人はゆっくりと目を開けた。
 「おはよう」
 開け放たれた扉に続くリビングに向かって声をかける。
 「おはよう」
 雪子はペーパーフィルターをセットしたドリッパーの中ですでに蒸らしてある珈琲の粉にお湯を注ぎ始めた。珈琲の粉がポコポコと膨らみ、フワっと香りを立ててから、静かに最初の一滴がサーバーに落ちていく。雪子はその瞬間がとても好きで、毎朝淹れていても飽きることはなかった。
 マグカップに珈琲を注ぎダイニングテーブルに置くと同時に明人がリビングに入ってくる。そのマグカップは何年か前に近所の蚤の市で買ったファイアーキングのジェダイ。分厚い作りなのに翡翠色のカップから珈琲の色が透けて見えるところが二人とも気に入っていた。
 テーブルの上には皮をむいて小分けにしてあるグレープフルーツとヨーグルト。
 「ほかになにか食べる?」
 雪子はゆっくりとカップに口をつけながらたずねた。
 「大丈夫。ありがとう。昨日も夜ご飯が遅くて、まだお腹空いてないんだ」
 いつも通りの朝のいつも通りの会話。
 朝は二人が共に過ごす大切な時間。

「朝食だけはなるべく二人で一緒にとりたいの」
 ある日、雪子が切り出した。頼みごとをするのが下手な雪子が何日も考えた言葉。
 「もちろん、そうしよう。僕もそう思っていた」
 そんなことをわざわざ約束しなくても当然のことと考えていた明人は少し驚きながら答えた。雪子の顔を見つめると、いつも通りの雪子だった。
「よかった。ありがとう」
 雪子は照れたように小さく笑って言った。
 「きちんと決めておくことがいいこともあるのかなって」

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