小説

『玉手箱』東雲トーコ(『浦島太郎』)

 昨日買ってきた珈琲豆を雪子が手動のコーヒーミルで挽く音がリビングから心地よく響いていた。
「おはよう」
 寝室にいる明人が声をかける。
「おはよう」
 雪子は粉になった珈琲豆をフィルターに入れた。挽きたての珈琲の粉はお湯を注ぐとまるで生きているかのようにプクッと膨れる。香りも音も生き生きとしていて、雪子はその瞬間を感じたくて何杯でも淹れたくなるのだった。
 テーブルには皮をむいて薄く輪切りにしてあるキウイとヨーグルト。それからクルミ入りのパン。
 雪子はクルミ入りのパンを一口齧ってから、珈琲にそっと口をつける。
「いい香りだね」
 一足先に飲み込んだ明人が言うと、雪子は嬉しそうに頷いた。
「そういえば今日、雪子はお休みだよね。会社の創立記念、だっけ?」
「そうなの。あとでお義母さんのところに寄ってくるわね。髪を切りに行くから」
「そうなんだ。よろしく言っておいて」
 雪子がいつも行く美容院は明人の実家の近くにある。髪を切りに行く時は明人の母親とお茶を飲み、持ち寄ったお菓子の批評をしあうのが常だった。明人の母親は教師だったが、今は定年退職をして自宅で習字教室を開いている。多趣味で料理好きで話好きな義母とのお茶会は、雪子にとって好きな時間の一つだった。

「それじゃあ、行ってきます」
 明人は玄関で声をかけた。洗い物をしていた雪子は手を休める。
「いってらっしゃい」
 その言葉を背に、明人は家を出て仕事場へと向かった。歩きながら今日のスケジュールを確認し、仕事場での手順を考える。セミが鳴き始めた夏の始めのいつもの朝。
 明人のスタジオは小さな3階建ての一棟で、もともとは金物の工場だったところだ。1階を作業室、2階をデザイン・製図室、3階を事務所兼応接室として使用している。展示スペースを作るだけでなく特注の展示台やアーティストの作品を具現化する作業まで引き受けることが多いので、作業室と製図室はどうしてもワンフロアずつ使いたいと明人が探して見つけた物件だった。

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