小説

『玉手箱』東雲トーコ(『浦島太郎』)

 帰り道のタクシーの中で明人は初めて雪子の手を握った。明人の大きな手が雪子の手をそっと包み込み、二人は黙ったまま車窓に流れる街の景色を見ていた。
 明人は時間がなかなかとれず、二人が次に会うのはひと月後になってしまった。もう秋も深まった頃のこと。ストーブのあるテラス席でミモザを飲みながら初めてのキスをした。
 明人は焦っていた。時間がない、と思った。仕事がどんどん増えている時期だったのでこの機会を逃したら永遠に二人の時間が重なり合うことはないような気がしたのだ。長い長いエスカレーターで一方は上り方面に他方は下り方面に乗っているような、みるみる離れてしまう感覚。
 明人は3回目のデートでプロポーズして、雪子はそれを受け入れた。
 まるであらかじめ決められていたみたいに。

 結婚してから明人は一層仕事にのめりこむことが出来、その結果、ますます忙しくなっていた。それは明人の望むところであったし、求めていた結果だった。それでも雪子との生活をおろそかにすることはなく、二人は今でも恋人みたいだと周囲の人間に冷やかされたりしていた。
 なぜ雪子と結婚したのかと聞かれるたびに、明人は遠い昔に一度だけ窓越しに合った視線のことを思い出す。しかしうまく言葉にできずに違う説明をする。「とにかくしっくりくるんだ」というのが一番簡単な説明のように明人には思えた。仕事でなかなか家に帰れなくても雪子との関係には安心感があり、ありきたりなようだけれど「二人は離れていても傍にいる」ような感覚が明人にはいつもあった。
 明人の仕事場は二人の家から徒歩10分。家と仕事場があるのは明人の生まれ育った町だ。それは昔ながらの町並み残る下町。住宅が密集した細い路地、古くからある商店街、わずかに残る職人の工房、人々の暮らしの真ん中に流れる大きな川、そういったもののある町。明人の実家も家から歩いて行けるところにある。愛着のあるこの町を離れずに好きな仕事をするという、思い描いていた通りの生活を明人は手に入れたが、そのぶん努力をしてきたという自負もあった。
 川向こうにある新興住宅地に育った雪子には、ご近所の交流が今でも残るこの小さな町の生活は別世界のように感じられた。「自分の町」という概念の欠けていた雪子にとっては初めての感覚。なかでも商店街に行くことは、何年経っても雪子にとってワクワクする体験だった。なんでも一度にそろうスーパーマーケットよりも、野菜は八百屋、魚は魚屋、パンはパン屋で買うという行為をとても愛おしく感じていたし、店主との何気ない会話も生活の匂いがして好きだった。豆腐屋で豆腐を買う時と、珈琲屋で珈琲豆を買う時は特に不思議な幸福感が雪子を包み込む。
 雪子は明人に感謝していた。明人がこの町に連れてきてくれたことを知っていたから。

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