小説

『玉手箱』東雲トーコ(『浦島太郎』)

 明人自身もその魅力には気づいていた。クライアントや現場には女性も多く、視線を感じるし実際に誘われもする。そのことで失敗したことがないとは言えないくらいのことが度々あった。しかし雪子と結婚してからは、厄介事のないように細心の注意を払っていると本人は思っていた。

 明人が雪子と出会ったのは、正確にいうと再会したのは、二人が26歳の時だった。
 その年の初秋に小さな出版社が集うブックフェアの会場を明人のスタジオが手掛けた。会場の施工は終わり、出展者たちが展示を始めるころ、最終的な確認としてブースをまわっていた明人はふと立ち止まる。髪をひっつめて化粧気の少ないきびきびと動く女の横顔に、なにか訴えかけるものがあったのだ。
 明人の脳裏によぎったのは一つの記憶。水色のスモッグを着て夢中で砂場で遊ぶ小さな自分と、窓越しに自分のつくった砂の城を見ている三つ編みの女の子。
「よもぎ幼稚園にいませんでしたか?」
 明人は決して社交的ではないが、こういう時に躊躇しない男だった。
 女は作業を止めて顔を上げる。それから明人のほうをじっと見つめた。目が合うと、明人のほうが気後れしてしまうくらい女の目は透き通っていた。
「いましたけど、、、えっと、、、明人君?」
 雪子の記憶にも砂場の少年と三つ編み姿の小さな自分が蘇る。
「会場担当のお名前を見て、もしかしたらとは思ったのですが」
 雪子は小さく笑いながらあくまで仕事の場の会話といった口調で続けた。
 二人は同じ幼稚園に通っていたが、話したこともなかったので特に思い出というものはない。たった一度、窓越しに目が合ったことがあるだけだった。しかしそのことだけは不思議なくらい二人はよく覚えていた。
 明人は声をかけてからハッとした。自分は相手の名前を覚えていないことに気づいたのだ。
「覚えていてくれて嬉しいです。作業中にすみませんでした。また来ます」
 自分でも驚くほど不器用に明人はその場を離れ、彼女について知り得る情報を手繰り寄せた。

 翌日、明人はいくつもの時間調整をして、でもそのような素振りは少しも見せずに、ブックフェアの雪子のいるブースに立ち寄り食事に誘い出した。半ば強引に。そして夜遅くまで語り合って、タクシーで雪子の部屋まで送ってから、スタジオに戻って遅れた分の仕事をこなした。

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