小説

『玉手箱』東雲トーコ(『浦島太郎』)

 明人も雪子も31歳。まだ子供はおらず、古いマンションの1LDKで気ままな生活を送る共働きの夫婦。
明人はいつも仕事をしていて、たまに大きな仕事を終えた後にマルニの洋服を買うことを小さな喜びにしている。一言で説明するとそういうタイプの男だ。
 雪子は小さな出版社で事務のアルバイトをしている。主に料理関係の書籍を出版しているところだが、大手企業の傘下にあるため、出版業界における先行きの見えない不況の中でも珍しくせかせかしたところのない会社だった。その上、事務のアルバイトには基本的に残業がなく17時に退社できることになっている。たまに残業をすることもあり雪子は特にそれを嫌だとは思わなかったが、仕事に生活の中心を置くタイプではなかった。
 だいたいは17時に会社を出てバスに乗って住んでいる町に戻る。近所の商店街で買い物をし、家に帰って料理をして、本を読む。そういうリズムを雪子は好んでいた。帰りの遅い明人と夕食をともにすることはほとんどなかった。その代わり、一人で食事をする時も多めに作り、いつでも明人がつまめるようにと何品かの惣菜を冷蔵庫に常備している。そのことを明人は素直にありがたいと思っていたし、雪子はそうすることによって一人で食事する寂しさと上手くつきあっていた。

 明人はイベント会場や展覧会会場のデザインや施工を行う小さなスタジオを自宅近くで経営している。大学を中退してすぐに始めた仕事で、キャリアは既に10年以上。丁寧な仕事とセンスの良さに定評があり、今のところ仕事にあぶれたことはなかった。明人はこの仕事をとても気に入っていて、唯一の問題点は、時間がないということだけだった。
 会場の施工作業は夜中か早朝にしかできない。午前から夜までは、取り組んでいる複数のプロジェクトのアイディア出しや設計、クライアントとの打ち合わせ、職人や工場への発注確認などを行い、深夜には現場に向かって最終的な作業に立ち合う。そこで朝日を浴びることも珍しくはなかった。様々な事が同時並行で行われ、その場の判断を求められ、作業においても人間関係においても、細やかな神経を必要とする仕事だった。
 明人にとって時間がないというのは、もっともっと仕事をしたいのに、という意味が込められる。
自分には仕事しかないという強迫観念が、明人にはあった。その気迫が周りの人を惹きつけてもいたし、実際、明人は色気のある男だった。顔のつくりは初対面で引き込まれるようなものではない。一重の小さな目と分厚い唇のアンバランスさ、身長187センチでラインの美しい身体、洋服のセンス、気負った雰囲気、そういったものすべてが色気となっているような男。

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