小説

『勧酒』センダギギョウ(『幸福が遠すぎたら』寺山修司)

 横浜桜木町方面から大岡川を遡って黄金橋を渡り幾つ目かの路地に入った所に、赤いレンガを積んだ古い建物があった。1階は地元の酔客が今晩の締めに訪れる時代めいたバーになっている。昼は営業をしておらず、陽が傾いてくるといつからか入り口脇のガス灯がほのかに灯りを点けて営業が始まったことを告げる。窓がひとつあるが厚いカーテンで中の様子は伺いしれず、時折ピアノの音と弱い拍手の音が微かに人の存在を知らせてくれる。そんな、店だ。
 私がそこに通うようになったのは、営業先で知り合った人が酒好きで伊勢佐木町で飲んだくれてはここのバーでジントニックを飲んで一日を締めるという夜ルーティンにお付き合いしたことからだった。彼がここに辿り着くのは大抵日をまたいだ時間帯で、彼と同じような話好きが連れかバーテンダー相手に思いつくまま話をするというのが定番で、その時間帯のこの店はおおよそ他のショットバーと違いはなかった。
 もしこのような店なら、わざわざ通うようなことはなかっただろう。だが、この店は夕方開店直後に行くと様子ががらっと変わるのだ。そのムードと、そこで出会ったある人物のため、私はここに通わざるを得なくなった。

私はみなとみらい辺りで妻の買い物に付き合っていた時なぜかこの店のことをふと思い出し、珍しく妻を誘った。それほど遠くはないからと言ったが、私よりこの辺りの地理に明るい彼女はムリムリと言ってさっさと京浜東北線で帰ってしまった。
彼女の言う通り、相当な距離があるということを思い知りながらようやくたどり着いたまだ陽の落ちきらない内のこの店は、まるで息をしていないかのようだった。夜には見えなかったレンガ壁のひび割れや2階までつたう蔦草などが、ただただ侘びしく見えた。ほのかなガス灯の灯りが点いていて、かろうじて営業していることは分かった。ドアを開けるのに、かなり勇気がいった。
ドアを開けた瞬間に曲が終わったようで、数人の拍手の音が中から私に降ってきた。曲を奏でていたのは初めて来た時には気付かなかった店奥に設えられたグランドピアノで、拍手の先にいたのはタキシードを来た初老の男性だった。彼は今、店主であろうイブニングドレス姿の中年女性からオールドファッショングラスに入ったロックのウイスキーを受け取り、無精ひげ混じりの顔をくたびれた笑顔に崩したところだった。

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