小説

『勧酒』センダギギョウ(『幸福が遠すぎたら』寺山修司)

 ただ、時に思春期の女生徒の気持ちというものは極端に振れるものだ。彼女は家出をして、神田さんの賃貸アパートにまで押しかけて来た。頑として帰らない、帰れないという彼女をなだめてすかして説得するのに相当骨が折れたそうだ。
 時には「結婚」という言葉を口にする生徒もいたそうだ。まだ未成熟な身体で誘惑するツワモノもいたという。「こう見えても、モテたんですよ」という神田さんは、男の私から見ても今でも充分に魅力に溢れて見えた。
「今日はこの曲で最後です」マイクに近付けた唇でくぐもった声で神田さんはそうつぶやくと、流れるようなタッチで『降っても晴れても』のメロディーを奏で始めた。その時外は、冷たい雨が降っていた。

「なぜ教師をお辞めになったんです」
 私が珍しく質問をすると神田さんは驚いたような表情を一瞬見せた後、すぐにいつものくしゃりとした笑顔に戻ってカウンターの中を指さした。
「あの人に騙されたんですよ」
 指は、氷を削るオーナーを指していた。私は高校教師時代の神田さんの話よりも、このふたりの話をもっと聞きたかった。だから、この時チャンスと思った私は、立て続けにいくつか質問を投げた。ところが、その様子を遠くから見咎めていたオーナーが近くに寄ってきて、「詮索はよくないわよ、ボク」とからかわれてしまった。神田さんはからからと笑って、グラスを傾けた。オーナーは神田さんの前に一片のメモを置いた。目線でリクエストをした客を示すと、また遠くへ行ってしまった。
「へえ」とメモを見た神田さんが声を出した。「よく聞いておいてください」そう言って、神田さんはピアノへ向かった。
いつも演奏を始める前には少し間を取る神田さんだったが、この時はその間がひどく長かった。陽が長く、まだ明るさの残る時間帯の店内には3、4組の客がいたが神田さんに気を払う客はいなかった。だからこの時の神田さんのなにかが滲み出るような静かな背中を感じていたのは、私とリクエストの客だけだったろう。

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