小説

『勧酒』センダギギョウ(『幸福が遠すぎたら』寺山修司)

 コントラバスの低音が響いて、曲の終わりを告げた。心のこもった拍手が本日最後のステージを終えた奏者たちに注がれた。私は珍しくこの店の1部目の営業の最後まで残っていた。特に飲みたいわけではなかった。
「あら、おりこうさんね。ちゃんと残ってたのね」
「オーナーが、今日は最後までいろって言ったんじゃないですか」
「そうだったかしら」
 言いながらオーナーは私の隣の席に身体を滑り込ませて、長い指でタバコに火を点けた。2部目の営業を任されているバーテンダーが、すぐに灰皿と氷の詰まったグラスを用意した。「いいわ」とオーナーが言うと、注ぎ掛けていたボトルをそのままふたりの前に置いた。
「覚えてる?」ボトルを持ち上げてオーナーがいたずらっぽく笑った。
「この盃を受けてくれ。『勧酒』でしょう」
「違うわ」
「そんな。覚えてますよ。神田さんと初めて会った夜ですから」
「違うのよ」
 オーナーはしつこく否定すると、自分のグラスと私のグラスになみなみとスコッチを注いだ。
「その詩は悲しすぎるでしょう」
「さよならだけが人生だ、ですか」
 オーナーはそれには答えずに、ひとりの客を指さした。
「あのお客さんは、覚えてる」
「いえ」見覚えはなかった。
「じゃあ、この曲は」そう言って、バーテンダーに変えさせたBGMは、神田さんがリクエストされて弾いた曲だった。「ショパンの変奏曲よ」ショパンだったのか、とこの時初めて私は知った。ただ、ジャズバーには珍しいクラシック曲だったので記憶に残っていたのだ。「よく聞いておいてください」と言った神田さんのいつもと違う背中の様子もはっきり覚えていた。
「『子守唄』っていう名前がついているのよ」
 オーナーが指し示した女性客は帰っていった。結局、誰かは分からなかった。ただ、なぜか私はその女性客が神田さんと駆け落ちをした女生徒だと確信をしていた。あの、招待状の送り主だ。
「さよならだけが人生ならば、また来る春はなんだろう」
 指で氷をくるりと回しながら、オーナーは独り言のように続けた。
「さよならだけが人生ならば、人生なんかいりません。こっちの方が、ずっといいでしょう」
 ふふと笑ったオーナーの視線は、まるでファインダーで捉えたように私の目を捉えて離さなかった。

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