小説

『勧酒』センダギギョウ(『幸福が遠すぎたら』寺山修司)

まるで違う店に入ったか、タイムスリップしたような感覚に落ちた。カーテン越しの窓から差す西陽の光と、陰のような数人の男性客。時代がかったドレスの店主と、今蝶ネクタイを外しかけている初老のピアニスト。
「いらっしゃいませ」と声を掛けられなかったら、きっといつまでもそこに立ち尽くしていたと思う。声を掛けたのは、そのピアニストだった。

その店は、夕方4時の開店から午後9時の時間帯は1時間おきにピアノの演奏が入るジャズバーになった。オーナーは例のイブニングドレスの女性で、深夜の営業はバーテンダーにまかせてショットバーとなる。演奏は時にトリオにもなり、時にボーカルも入った。私は1度だけ、いやいやしながら『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』を見事に歌い上げたオーナーの姿を見たことがある。
私が大手出版社の営業だと知って興味を持った専属ピアニストの神田さんが、「昔話を聞いてくれますか」と話をし始めたのは、私が初めてこの店に来てからまだひと月も過ぎていない頃だったろう。「私は編集でも、作家でもないですよ」というと、神田さんは例のくたびれた笑顔で「いえいえ、本にしたいんじゃないんです。そろそろ外に出さないとしんどいんですよ」と言った。
「この盃を受けてくれ」神田さんが、マッカランのボトルを持ち上げた。
「どうぞ、なみなみつがしておくれ。『勧酒』ですね」私はグラスを両手で持ち上げた。
「さすが」
 苦笑いで酒を受けた私に、神田さんはこの話を始めた。
「私は高校の教師だったんです。音楽のね」
 そこからしばらくの間神田さんは、曲間の短い時間で昔の話をぽつりぽつりしてくれた。曲の間は思いの外短く、休憩なども挟むため、私はこの話を聞くためにここに何日も通うことになったのだ。
 前置きが長くなったが、これはその神田さんの物語だ。

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