小説

『勧酒』センダギギョウ(『幸福が遠すぎたら』寺山修司)

 神田さんは担任を持たない音楽の常勤教師として、神奈川県の海の近くの高校に赴任した。5年ほどサラリーマンをした後の教師生活スタートだったため、うまく教員室に溶け込めず悩んだこともあったようだが、それは次第に気にならなくなった。どちらかと言えば、一匹狼風のその様子は生徒の人気になるにはむしろ良い影響を及ぼした。特に女子生徒からの人気はひとかどのものだったようだ。
 神田さんは希望のあった生徒に放課後にピアノを教えていて、部活動として採用するという話も出たそうだが神田さんはそれは断った。部活動にするには5人以上の生徒が必要だったし、活動計画や活動報告といった煩わしい業務が増えるからということもあったが、最も大きな理由はマンツーマンでの指導が出来なくなるからだった。どうせ教えるのなら意味のあるものにしたい、そう思ったのだそうだ。

「生意気でしょう」
 緩めていた蝶ネクタイを締め直して、神田さんはピアノに向かった。私の手元には1通の封書があった。まだ封を切っていないその手紙は、神田さんのかつての生徒から送られてきたものだった。裏には男女と思われるふたりの名前が並んで記されていて、結婚式の招待状であることがすぐに分かった。だが、封書は古びれていて、きっととっくに式は終わっているのだ。封を切れない訳はこの時はまだ分からなかった。

「卒業、したくない」そう生徒に言われたことがあったという。
 ピアノをずっと習いたい、とその生徒は言ったそうだ。神田さんは学生時代、国内のコンクールで何度か入賞をしたこともあったそうだが、自分の教え子がそういった舞台にまで行くことは無いということは確信していた。あくまでも、情操教育としてのピアノの時間のつもりだった。だから、いつまでもここに通わせる訳にはいかなかった。限られた時間の中で終わることを前提とした、そういう時間だったのだ。

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