小説

『散る花の願い』五条紀夫(『花咲かじいさん』)

 父さんとの散歩の最中、地面と空がひっくり返った。
 あまりにも突然のことだったので何が起こったのか分からなかった。どうやらいまは宙を舞っているようだ。ゆっくりと景色が流れて、逆さまのお日様が視界の外へと逃げていく。やがて、この身体がアスファルトに叩きつけられた時、僕は、車に轢かれたのだということを理解した。

 
 短い夢を見た。散る花の夢だった。
 十二年前、僕が生まれて間もない頃、父さんが庭に桜の木を植えてくれた。それは毎年綺麗に咲いて、春の終わりには小さな花びらを降らせた。僕はその下で遊ぶのが好きだった。桜を浴びる僕を見て、父さんはいつも笑っていた。
 ねえ、そこで泣いているのは、誰?

 
 気が付くと、夜だった。スクランブル交差点の真ん中、横断歩道の縞々と縞々が交わる黒い四角の中央に、僕は立っていた。歩道を見れば、日が暮れて気温が下がったからだろう、白い息を吐きながら家路を急ぐ人々の姿がある。
 事故に遭ったのは昼間だ。ずっと気を失っていたのだろうか。
 少しばかり奇妙に思ったけれど、まずは、自分の無事を父さんに知らせなければならない。そこで走りだそうとした。ところが、なぜか動けなかった。痛みはないので怪我をしているとは考えにくい。それにもかかわらず、根を張ってしまったかのように、足がまったく持ち上がらなかった。
「誰か! 助けてください!」
 このままではまた轢かれてしまう。そう考えて繰り返し吠えるように叫ぶ。けれど、歩道を行く人たちは誰も振り返ってはくれない。
 そうこうしているうちに信号が青へと変わった。何台もの車がすぐ横を掠めていく。耳のそばを風が流れていく。そして最後、トラックの車輪がこちらに迫ってきた。潰される、と思った時、その車輪は僕の身体をすり抜けた。
 よくよく見てみると、僕の身体は透けている。
 そうか、僕は、もう死んでいるのか。
 だから誰も、僕に、気付いてくれなかったのか。
「おや、珍しい。小さな命が彷徨っているとは」
 声がしたので振り返ると、そこには腰の曲がったお爺さんがいた。
「お爺さんは、僕の姿が見えるの?」
「ああ、もちろん見えているさ」
「僕の言葉が聞こえるの?」
「ああ、聞こえているよ。私も死んでいるからね」
 お爺さんが一歩進み出る。その身体は、僕と同じように、透けていた。
「助けてください。動けないんです」

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