小説

『ウイメンの水死体』紗々井十代(『ブレーメンの音楽隊』)

 八月のその夜、馬兎みさきの二ヶ月に及ぶ彼との交際は終わった。
 「やっぱりお前じゃない。分かるだろ」
 駅から家の途中にある、小さな公園でのことだった。
 「とにかく。お前とはもう別れる」
 一方的に切り出される別れ話に馬兎は、待ってよ、とか、ちゃんと話し合おう、とかしどろもどろに言った。彼は振り返りもせず田舎町の暗闇に溶け込んで、公園には嫌な蒸し暑さがべっとり残された。
 大学生になってから八回目の失恋だった。
 馬兎の恋はいつも長続きしない。彼女から振る場合もあるし、今回のような場合もある。別れの原因だって様々だけど、ただ一つ言えることは、彼女は男と別れるたび酷く落ち込むということだ。
 馬兎はそれから二日間、アパートから一歩も出ずにしくしくと布団の上で過ごす。だって、あんまりだ。言葉少なに「分かるだろ」なんて言い放たれ、ちっとも分からない。
 二人の間にはまだ話し合うことが残されているように思えた。
 しかしようやく気力がわいた馬兎の胸には、違う決意が宿っていた。
 「死のう」
 声に出して呟くと、確かな決意が六畳間に沁み込んで、窓から覗く晴れ模様は祝福の光を湛える。
 彼女は自殺することを胸に誓った。変死体にでもなって、テレビのニュースで騒がれれば、彼への当てつけになると思ったのだ。
 それからたっぷり一日、馬兎は死ぬことについて考える。
 「きっと海で死んだら素敵だわ。死ぬ間際に海が見えるんだもの。夜だったら星も見えるわ。でも苦しいのは嫌だから、部屋で練炭に火をつけた方がいいのかしら。お気に入りの音楽でもかけて。ああ、それよりも……」
 彼女ははたと思い出した。別れを告げたい友人がいることを。ほとんど唯一と言ってもいい、その親友に黙って死ぬわけにはいかない。
 いてもたってもいられず、馬兎はすぐにアパートを飛び出した。よく晴れた八月の昼下がりに。

 犬ヶ丘もみじのアパートは馬兎の部屋から歩いて五分のところにある。大学周りの田舎町だから、一人暮らしの大学生が多く住んでいる。
 「ねえ犬ヶ丘。私、馬兎よ。あなたと話がしたいの」
 馬兎は親友の部屋を尋ねて戸を叩く。
 しかし表に出てきた犬ヶ丘の顔つきは、酷く憔悴したものだった。長い髪が絡まり、目の下には真っ黒な隈さえできている。愛嬌がある顔立ちが台無しだった。
 「ちょっとあなた、酷い顔だわ」
 「ああ馬兎。私はもうダメだ。明後日締め切りの、終わっていないレポートが四つある」
 「今って夏休みでしょう?」
 「ゼミの教授が酷いじいさんでね。途方もない研究のまとめを、年中私に寄こすのさ」
 犬ヶ丘は疲れたように笑うと、馬兎を中に招いた。部屋には山積みの参考の文献やらレポートの束。けだるそうな埃がどよんと漂った。

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