小説

『ウイメンの水死体』紗々井十代(『ブレーメンの音楽隊』)

 犬ヶ丘はインスタントの珈琲を淹れた。
 「そんなゼミ辞めるべきだわ」
 向かい合うや否や、馬兎はそう言い切った。
 「もしあなたが楽しいならそれでいいんだけど。ちっともそう見えないんだもの」
 「辞めたいのは山々だね」
 犬ヶ丘はそれを認めながらも、次のように言う。
 「だけどもう大学生活も三年目の夏だ。今からゼミを辞めたんじゃ、後々そっちの方が面倒だ」
 就活とか。卒業論文とか。
「前門のトラ後門のオオカミ、というわけね」
 馬兎は悩ましげに髪先を弄った。しかし思いついて身を乗り出す。
 彼女には前門と後門のほかに道が見えていた。
「それなら、私はこれから海へ行って、自殺しようと思っているところだけど。あなたもご一緒にどう?」 
 「バカじゃないのか」
 ご一緒にどうって何、と犬ヶ丘は笑った。
 「夕食の誘いじゃないんだから」
 「冗談じゃないのよ。つい最近、私は男に振られたの」
 それを聞いて犬ヶ丘は納得いったように頷いた。彼女が男と別れるたび、酷く落ち込むことを知っていたのだ。
 「それはお気の毒様。だからって死ぬことはないだろう」
 「いいえ、死ぬわ」
 馬兎はきっぱりと告げた。
 「あなたも死んでしまえば、きっと教授は面食らうに違いない。いい気味よ」
 目の前の親友が、自殺をそそのかすのを複雑な心境で聞いた。しかし冷静に判断するには、犬ヶ丘はあまりにも疲れていた。
 実際のところ、教授のことを快く思っていないのだ。いつも自分にばかり課題を課して、他のゼミ生は彼女の半分もやっていない。
 「分かったよ。私も一緒に死のう」
 犬ヶ丘は深く頷いた。インスタントコーヒーをぐいっと飲み干す。
 「だけど馬兎。私には最後、別れを告げたい人がいるんだ。いいかい」
 馬兎は快く了承した。

 二人が次に訪れたのは、猫錦みこのアパートだった。犬ヶ丘の部屋から歩いて十分とかからない。
 「やあ猫錦。犬ヶ丘だ。君に話がある」
 インターホンを鳴らして出てきたのは、いやに不機嫌そうな美しい女――猫錦みこ――だった。ぱっちりと大きい瞳に長いまつげが被さって、ビロードにくるまれた宝石のようだった。
 「突然何の用? そっちのヤツは知らない人だ」
 そっちのヤツである馬兎は軽く頭を下げて自己紹介する。聞いているんだか分からない顔でしきりに自身の頬を撫でていた猫錦は、二人を部屋に上げてくれた。

1 2 3 4 5 6 7