小説

『あずかった夢』ウダ・タマキ(『ひらいたひらいた』)

 追いかける俺は必死だったが、逃げる犯人も必死だった。お互いに周りのことなんか見えちゃいない。考えていることは、ただ一つ。逃げることと、捕まえること。もちろん交通ルールを守る理性など保っていなかった。

 だから、俺は車に轢かれた。強い衝撃を受けた俺の体は宙を舞い、天も地も分からないまま地面に叩きつけられた。俺の人生はどこまてもツイてない。笑えるくらいに。
 
 目覚めた時には、空の青は無機質な白に変わっていた。
「蓮?」
「あぁ、母ちゃん」
 目覚めに母ちゃんの顔を見るなんていつ振りだろう。思わず「おはよう。老けたな」って場違いな言葉が漏れた。
「何言ってんのよ、死んじゃうんじゃないかって心配したんだから!」

 死ななかったのか-

 このまま目覚めなければ、将来の不安も何もかも全てが消え失せたのに。生存を喜ぶ母ちゃんの前でそんなことを考えるのは親不孝だが、生き延びた現実を知った俺は大きく気落ちした。
 母ちゃんはナースコールを押し、やって来た看護師に「蓮が目覚めました!」と涙を流して興奮気味に告げた。どうやら三日間も眠り続けていたそうだ。

 ひぃらいたぁひぃらいたぁ。蓮ちゃんのおメメがひぃらいたぁ

 まだ、泣くか笑うかの感情しか備わっていない頃、母ちゃんは目覚めの俺に歌い、目尻に深いシワを浮かべて腹をくすぐった。キャッキャと笑い喜ぶ俺を抱き上げ、ごしごし頬擦りをすると、母ちゃんのパーマ頭に染みついた父ちゃんの煙草の匂いがした。
 その頃の記憶なんて他に何一つ残っちゃいないが、なぜか歌のリズムとその匂いだけは俺の頭から消えない。
 父ちゃんはいつも煙草を吸っていた。酒もよく飲んだ。陽気で、豪快で、どこにいてもその存在を感じられる人だった。
 しかし、父ちゃんは俺が小学二年生のときにこの世を去った。若い頃の癌は進行が早く、見つかった時点で全身に転移していたらしい。呆気なかった。
 父ちゃんの死後しばらくは、壁や家具に染み付いた煙草の匂いに父ちゃんを感じたが、やがてそれも消えると父ちゃんの記憶は薄れ始めた。
 良くも悪くも時の流れは無常だ。あれだけ深い悲しみに暮れた父ちゃんの死は、過去のものとなった。意図して思えば悲しみはあったが、日常にいないことが当たり前となり、父ちゃんがいた過去は思い出の一つとなった。

 大人になった俺は、いつの頃からか父ちゃんの死を意識するようになった。

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