小説

『蜘蛛の意図』結城熊雄(『蜘蛛の糸』)

 蜘蛛が顔を上げるとそこにはハサミを持ったお釈迦様の姿があった。蜘蛛は尋ねた。
「神田の元へ糸を垂らすよう命じたのはお釈迦様でしょう。どうして切ったのですか? 神田は他の人々と協力し、ともに救われようと考えていました。母親と再会した際には感謝と謝罪を心に決めていた。罪に対する懺悔の気持ちも十分にあった。なのになぜ」
「おやおや勘違いしちゃあいけないよ。私は彼らを救う気なんて端からない」
「……どういうことですか」
「苦しみの中に微かな希望を見つけ、それは次第に大きくなっていく。しかしあと一歩のところで叶わず絶望の底に沈む。これは新作の『蜘蛛の糸地獄』だよ」
 高笑いをしながらお釈迦様は歩いて行ってしまった。それに伴い、蓮池の周りに集まっていた極楽の住人達も方々へ散っていった。そろそろ極楽はお昼時なのだろう。
 人々の後ろ姿を見送ると、蜘蛛は蓮池から地獄の様子を覗き込んだ。ちょうど神田がしぶきを上げて血の池に沈んだところだった。神田の感じた絶望はどれほどのものだっただろう。蜘蛛は静かにまた糸を垂らしていった。

「畜生!」
 血の池の水面を何度も拳で叩いた。怒りと悔しさをぶつける先がそこしかなかった。神田は純粋な男だ。お釈迦様に糸を切られたなどとはつゆも思わない。ただ自分の不甲斐なさを恨んでいた。これにはさすがの神田もこたえたのか、溜息をつき呆然と天を仰いだ。
 どれくらいそうしていただろう。虚ろに開けた目の端に、きらりと光るものがあった。
「蜘蛛の糸……。おい、また蜘蛛の糸が垂れてきたぞ! お釈迦様は我々を救うことを諦めていなかったのだ! さっきは重量超過か時間のかかりすぎで糸が切れてしまったに違いない。次は一度に上る人数を減らして、素早く上ってみようではないか」
 その呼びかけに応える者はいない。他の者はすっかり意気消沈していた。
「なんだ、どうしちまったというんだ」
「あれをもう一度やるなんて俺には到底無理だ」「お釈迦様は助ける気なんてないんじゃないか」
 そんな嘆きがぽつぽつと聞こえてきた。
「何を言う戯け者! 俺は行くぞ!」
 神田は黙々と一人糸を上った。先ほどよりも速く、力強く。神田は純粋な男だ。極楽へ行けるということを信じて疑わないのであった。

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