小説

『蜘蛛の意図』結城熊雄(『蜘蛛の糸』)

 下の方で弱音を吐く者がいれば懸命に励ました。
「こんなところでくたばるんじゃねえぞ! 地獄に比べりゃあ糸を上るくらい屁でもねえだろ! 死ぬ気で頑張らんかい!」
 ここまできたらみんなで揃って極楽に行きたい。あの恐ろしい地獄を耐え抜いた仲間たちなのだから。人は罪を犯す。現世で数十年生きていればその数は一個や二個じゃないだろう。中には取り返しのつかない大きな罪もあるかもしれない。でも人は必ず更生できる。それを今まさに体現しているようだった。
 上空の光がどんどん大きくなる。近づくにつれ極楽の様子も徐々にわかってきた。ああ、なんと美しい世界だろう。神田は思わず見入ってしまった。ここ数十年と目にしていなかった明るく淡い色達が迎え入れる。飛び込んだらどれほど気持ちがよいであろう、わたあめのように真っ白い雲、その上に極楽はあった。老若男女の幸せそうな笑い声が漏れ聞こえる。仄かに花々の芳醇な香りまでしてくるようだ。こんな夢の国に俺も足を踏み入れていいのか。心臓の鼓動が高鳴るのを感じる。もう少しで母に会える。母に会ったらどんな顔をしたらいいのか。母には酷く迷惑をかけた。なんと詫びたらよいだろう。いや、まずは感謝だ。母の言葉がなければここまでくることもできなかったに違いない。
 あと十メートル、五メートル、一メートル……。ついにあと指の関節一つ分というところまできた。地獄での数十年が思い起こされて涙が溢れた。文字通り地獄の苦しみが、ついに報われるときがやってきたのだ。神田が極楽の淵に手を掛けようとした、そのときだった。
 ぷつり
 その音を、神田は一生忘れることはないだろう。もっとも、彼の一生は当の昔に終わっているのだけれど。最後に伸ばした神田の手は空を切った。ふわりと、極楽の雲が微かに揺れた。頼みの綱、いや、頼みの糸がなくなった神田は為すすべなく真っ逆さまに落ちていった。

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