小説

『真夏の浦島奇譚』小杉友太(『浦島太郎(御伽草子)』)

 変な爺さんがいる、と聞いたのは薄曇りの蒸し暑い午後のことだった。鉄板にこびりついた焦げかすをヘラで落としていた私に、怯えた表情で教えに来たのは一緒に働いているバイト仲間のユリである。ユリは私のエプロンの端をつまみ、なんとかして、と真っ黒に日焼けした顔には不釣り合いな甘えた声を出す。チャーミングな子なので点数でも稼ぐかと、私は持ち場を離れることにした。
 八月も半ばを過ぎて海水浴客が減り、海開きから毎日働き続けた海の家もすっかり暇になっている。この時期は毎年クラゲだらけになるので、泳ぐのはよっぽどの酔狂かボディスーツで防御を固めたサーファー連中しかいない。少なくなった客の大部分は、ただ砂浜を散歩して海の気分を味わいたいだけのカップルである。彼らはシャワーもロッカーも必要とはせず、気まぐれにかき氷を求めるのが関の山なので売上は激減してしまう。しかし歩合制で時給を貰うわけではない私にとって、仕事が楽なこの季節は歓迎だった。
 ユリの案内で簡易更衣室の前まで来ると、なるほど確かに変な格好をした爺さんが砂地の上にぺたんとしゃがみ込み、何やら途方に暮れている。変、というのは着物姿だったからで、古びた浴衣みたいな装束である。
「じいさん、何やってんの?」
 私は更衣室の前という事もあって、てっきり覗きでもやらかしたのだと決め付けていた。しかし返事を聞いて、もっと厄介な事態かもしれないと思い直す。
 爺さんは「ここはどこだ?」と言い放ったのだ。

 ユリと私が爺さんから聞き出せたのは、まったくもってよくわからぬ話である。この辺りに住んでいたのに見覚えのあるものがすべて消えてしまった、と爺さんは訴える。そのくせ、どこから来たのかと質問しても答えは要領を得ないのだ。ただ、こういう言動は老人には珍しくはない。私の祖父も他界する前に罹っていたアルツハイマー病だろうと見当を付けた。尻のポケットからスマホを出して、警察を呼ぼうとしたその時である。
「この箱を開けてしまったのじゃあ」

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