小説

『キズをおって』森本航(『飯野山と青ノ山の喧嘩』(香川県))

 泉の言った「やめて」は、「親友」という言葉に対して使われたモノではない、はずだ。
「いや、シンユー言うただけやん」尚も茶化すように言うこんな会話も、特に中身のないやり取りなのだ。
 だから、
「ちゃうって、葵がいつもくっ付いてくるんよ」
 泉が相変わらず笑いながら言った一言も、いつも「姉妹みたい」と言われてきたという話の延長に過ぎなかったのだろう。
 しかし、
 ――私がいつもくっ付いてるだけ?
 瞬間、私を支配したのは、苛立ちや怒りではなく、不安や焦燥に似た感情だった。
 その時、私がどんな表情ををしていたのか、覚えていない。
 私は、泉を突き飛ばした。
 そこまでするつもりはなかったが、自分の手に、想像以上に力が籠っていた。
 手に一瞬抵抗が感じられ、それが抜ける感触。
 後ろによろめく泉。
 スローモーションみたいに見えた。
 私は目をそらすように体の向きを変え、鞄を掴んで、速足で教室から出た。

 次の日、泉は学校に来なかった。
 そして私は、担任に呼び出された。三十代半ばの男の先生だ。
 昨日、私に突き飛ばされた泉は、手を着こうと反射的に体を捻った時、ちょうど顔の位置にあった黒板の粉受けの角で、右のこめかみのあたりを切った。三針縫うケガだっという。
「ぶつけた言うより、擦って切れたって感じらしいけん、他は問題ないらしい。本人もしっかり喋れよったわ」

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