小説

『チェロの糸』伊藤東京(『蜘蛛の糸』(芥川龍之介))

 そういって私の横を通り過ぎようとしたので、私は怒りに任せて兄を突き飛ばす。兄が後ろに一、二歩よろめく。
「ふざけないで。何で同じ芸術なのに、音楽は良くて美術はだめなの?あんたこそずっと楽器練習してるだけじゃん!みんなあんたのことばっかり。これ以上何して欲しいっていうんだよ!」
「お前には分かんないよ。」
「分かんないって何が。」
「お前は良いよな。好きなこと出来て。俺はチェロリストになる以外ないんだからさ。」
「今更何言ってんの?ずっと前から世界一のチェロリストになるとか言ってたじゃん。」
 そこで兄は黙り込んだ。部屋を出ていく兄を私は睨め付けた。
 兄が去った後、私は折られたスケッチブックを拾い上げたが折り目を戻しても、もうスケッチブックはイーゼルの上には立ってくれなかった。
 それから謎の嫌がらせは止まった。全て兄がやっていたことだったらしく、兄と言い合ったことを思い返してみる。
 兄は学校ではチェロが弾けることを自慢げに話していた。けど、それに関わらず兄は自分の人生が親に決められていることに苦しんでいたのかもしれない。
 兄がチェロを演奏することがあまりに当たり前のことで、兄がチェロリストに自分から進んでなりたいと思っている訳ではないのかもしれないと思ったことがなかった。
 そんな兄を可哀そうに思いながら、私は父の運転する車の中にいた。父、母、兄、ピアニストを目指している兄の女性クラスメイトの四人で、地元のコンサートに出演するのだ。私抜きの家族全員が音楽コンサートに出演することはよくある。その度に私含めた家族全員で会場に行くのが恒例行事だ。

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