小説

『波と波の間』村上ノエミ(『人魚塚』(新潟県上後市))

 苔生した石灯籠に火を灯す。海に沈む赫が、深い蒼に呑まれ、濃い島影が残る。母を長らく苦しめた父を呑み込んだ海の波がざばんざばんと浜を打つ音が響く。優しい時間だ。もう何も起こらないはずの今日の、優しい時間であるはずであった。
 お宮から離れて暫くして、なぜか近頃蝋燭の減りが早いのがやはり気になり、新しく持ってきた蝋燭に変えようと、お宮に引き返す事にした。
暗闇に灯火が見えてくる。なにも変わりない。ただその日は月がいやに大きく見えたので、海には月に届くような光の梯子ができていた。海から改めて灯籠に視線を戻すと、私はそこに不可思議なものをみた。灯籠の前にぼんやりと橙色に照らされた影が見える。その影は、段々と輪郭を持ちはっきりと形を現した。
 女だ。灯籠の揺れる蝋燭の火に顔を近づて、目を細めて魅入っている。濡れた長い髪の先から水が滴り、裸の曲線がはっきりと見えた次の瞬間、女が頬を緩めたまま振り返ると、私の姿を見て目を丸くして硬直した。
「なんてことっ」
 私は、慌てて自分の帯を解き、着物を女に羽織らせた。
 女は身体を強張らせたまま、暫く私を驚きの眼差しで見つめていた。そして身体をくねらせ、声も上げずに着物から抜け出し走り去った。私は茫然としたが、その女が昔一度聴いた、あの歌声の主だと確信した。
 私はあの女を怖がらせてしまったのか。とぼとぼとやりきれない気持ちで、浜を歩いていると、岩礁の近くの波打ち際に女が立っている。待っていたのだ。
 女は一直線に私の元に掛け寄り、胸に飛び込んできた。
「待っていたのよ。ずっと、待っていたのよ」

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